【田丸城 その1】

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三重県 田丸城  みえけん  たまるじょう
■田丸城=見学自由
駐車場=玉城町役場(無料)   (2006.3.18現在)
住所=度会郡玉城町田丸114
(広域だと伊勢自動車道 玉城I.Cを下りる) この時は、国道42号を松阪市から南下し、仁田北信号を県道13号へ左折。 そのままひたすら県道13号を進み、勝田交差点を左折。 橋を渡って、線路を渡る。本当は五叉路の道を、Y字っぽい道を斜め左。 突き当りのT字路を左。真正面に役場が見える。

玉丸城 (案内板の写真をクリック→拡大)
田丸(玉丸)城は、延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸の時、北畠親房が これに呼応挙兵する為南勢の拠点として築いたものである。 神領を領有するため南北両朝は、しばしばこの城を中心に争奪戦を繰り返したが、 合一の後は北畠氏一族がここに居城、玉丸御所となった。 室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養子嗣として 和睦、南勢五郡を制し、天正3年(1575)冬、信雄は大河内城から田丸城に移った。 この時、田丸城を大修築し、三層天守閣を築き、現在の規模を整えたが、 火災により天守を焼失、信雄は松ヶ島城に移った。 以後、稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが明治維新、廃城により 御料林(国有地)に編入。 昭和3年5月にいたり村山龍平氏(旧田丸領士族・朝日新聞創始者)の篤志により 旧田丸町所有地となり城山公園として、これを開放した。 当城はいわゆる平山城の初期のものの1つであり、昭和28年三重県文化財史跡に指定され、 石塁など昔日の面影を今に伝え絶える事無く現代に繋がる貴重な城跡である。 (玉城町の案内板より・絵図も)
大手門跡&外堀
(左)二の門方面。大手門を入ってすぐ二の門跡。 (真ん中&右)大手門跡から見た外堀。 大きな堀が残っていた♪
町役場 紀藩同心跡御目付 御代官跡
すでに、町役場の駐車場から石垣が見えたから、 「おお〜っ!」と、胸が躍った(^^) しかも、ここが既に跡(^^)
二の門跡横の内堀 元代官屋敷跡 SL「C58414」
(左)内堀もちゃんと残っている。 (真ん中)上から見渡す元代官屋敷跡。 (右)元代官屋敷跡の横にあったSL(^^)
二の門跡
(左)大手門を入ってすぐで、 城址碑が立つ。 いやはや、中学校があるだけに、 生徒とよくすれ違う(^^;) (右)桝形。
富士見門(長屋門)(移築)
田丸城は、南北朝時代に築城された平山城で南勢地方随一の古城である。 戦国時代幾多の遍歴を経て築城以来、600数十年の歴史を秘め明治維新により 廃城となった。廃城当時(明治4年)、城内の建物は入札によりすべて取り払われる こととなった。城内には8ヶ所の門があった、 その内三の丸(現在の玉城中学校校庭付近) には冠門(御成門)と富士見門があった。御成門は三の丸御殿へ、 富士見門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門であった。 この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを、 昭和59年3月、町がこれを譲り受け現在地に移築復元したものである。 この両側には長屋作りの侍溜があったが乙部氏邸に移築の際、 向かって右の部分が取り除かれ、左の侍溜が納屋(間口三間半)として 移築され、保存されていたものである。この城門は江戸時代中期のもので、 往時の原形をとどめた現存する唯一の建造物である。 (玉城町の案内板より)
蓮池跡 富士見門の後ろの石垣 こっちから…
ボコーッと明らかに池跡って感じ。 一応、上がれるようになってる。 でも、普通はこっちからかな(^^;)
桜かな? 虎口? 高い土塁
両脇が曲輪っぽいんだよね〜。 何でも虎口に見えてしまう(^^;) それにしても高い!!
北の丸と本丸の間
(左)石垣?え?どこに?本当だ!なぼんやり感が好き。 (真ん中)本丸の石垣だ! (右)真ん中の写真の右側。
(左)階段が無いと上がれない(^^;) (真ん中)階段から。結構深い。 (右)真ん中の写真の奥。右上の写真の上部。
北の丸&北の丸の石垣
石垣の下に、北の丸の石垣の説明板が、 あったけれど、どう頑張っても
見えない(^^;) 「第W期…石垣…」と書いてあったくらいしか読めなかった。
読むには下りて近付かないといけないけれど、ここからはちょっと(^^;)
もしかしたら、下から行く事が出来たのかな?
(下真ん中)右下の写真の奥に見える石垣部分。
(右下)第W期の石垣部分。

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