| 大手門跡 |
仙台城大手門は素木造二階建、入母屋本瓦葺で一階は
正面七間、背面五間、二階は十間の規模で桁行は六十五尺(約20m)
あった。両脇と裏面は漆喰壁で禅宗様の火灯窓を持ち、正面冠木に
菊と桐の金箔押の飾金具をあしらい棟に鯱を頂く。全国随一の規模を誇る
桃山様式の威風堂々とした美しい城門で、二層の隅櫓とともに国宝に
指定されていたが、昭和20年7月9日の仙台空襲により焼失した。
現在の隅櫓は昭和39年に復元したものである。(案内板より・古絵図も)
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大手門手前の石垣。
(真ん中)左の写真を横から。結構、長く続く石垣。
高さもある。
(右)大手門側の端。
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| 復元隅櫓 |
結構大きくて、広角じゃないカメラの
為、道を挟まないと入らなくて(^^;)
その道を挟む側に、若い男の人が。
隅櫓を撮り終えたらしく、横断歩道の
無い所からこちら側へ、渡りたいけど
渡れない状態を目撃(^^;)渡ろうと
すると車が来るという運の悪い人で、
気になって見ていたら、目が合ってしまって、
かなり気まずい雰囲気に…。その人も
気まずさと恥ずかしさに負けてか、横断歩道まで戻り、
去っていってしまった(^^;)
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二の丸(殆どが東北大学の敷地)&支倉常長の像 |
寛永15年(1638)二代藩主伊達忠宗公によって造営され、
その後幕末に至る二百数十年間、政治の中心地、藩主の
日常生活の場として機能していた。二の丸には、小広間を
はじめとする二の丸御殿、勘定所、郡方役所等が建てられており、
当初、北西の地には、伊達政宗公の長女五郎八姫の住む西屋敷もあった。
しかし明治15年(1882)の火災によって殆どの建物が焼失し、
難を免れた大手門・脇櫓・寅ノ門も、昭和20年(1945)の戦災で焼失した。
現在は、東北大学の文系キャンパスへと変貌している。
(案内板より)
支倉常長を写していたら、他の観光客も誰だろう?って感じで
近寄ってきた。しかも、同じ様に撮ってた(笑)
後ろに信号があるから、なんだか恥ずかしい(^^;)
丁度、赤だし(笑)
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| 三の丸の堀(五色沼) |
三の丸には米蔵などの収蔵施設が立ち並んでいたが、
仙台藩初代藩主伊達政宗公の
時代には、庭園や茶室のある屋敷があった。正保の城絵図によると、その規模は
東西約144m(80間)、南北約117m(65間)であった。
この三の丸は堀と土塁で堅固に囲まれていたが、現在「五色沼」
と呼ばれているこの地は、北側の堀に当たる。(案内板より)
(左)フィギュアスケート発祥の地らしい。
(右)五色沼の反対側の土塁。
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| 三の丸・子ノ門跡 |
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現在、仙台市博物館敷地内の出入口と
なっているこの場所に、木造二階建・
瓦葺の門が立っていた。正保の城下
絵図(「奥州仙台城絵図」)では「子ノ
方門」と見える。三の丸への北側の
出入口である。現在も石垣が左右に
残っており、往時を偲ばせるが、この
石垣は昭和に入り修理されている。
(案内板より)
(右)左の写真の右側の土塁。
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| 三の丸・東側土塁跡 |
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三の丸の地は、堀と土塁とで堅固に囲まれていた。土塁は
正保の城下絵図(「奥州仙台城絵図」)では「岸」「土手」等と記されている。
博物館建設の際の整地によって見た目は低くなっているが、江戸時代には
高さが2間(約3.6m)あったと伝えられる。土塁の高さは場所によって
異なり、南の巽門脇は高さ5間(約4.5m)、北の子ノ門脇では7間半(約13.5m)
もの高さがあった。(案内板より)
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| 仙台市博物館(三の丸) |
伊達政宗の像 |
残月亭 |
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(左)三の丸に立つ。
(真ん中)兜が深くて顔が暗い〜(^^;)
(右)この時、センサーが作動中!夕方だったからね。
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| 巽門跡 |
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藩政時代初期の絵図には「蔵屋敷」と記されている三の丸(東丸)には、
二ヶ所に門があった。北側出入口が子の門で、南東側が巽門である。
巽門は大手門や脇櫓とともに戦災まで残っていた数少ない建造物の1つで、
昭和59年に実施された発掘調査で建物の礎石14個や雨落溝等が検出され、
翌年その成果をもとに門の跡の復元整備を行った。
(案内板より)
(左下&下真ん中)いろいろな角度で。
(右下)巽門近くにあった石。
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| 酒蔵跡 |
この地は、慶長13年(1608)に大和国(奈良県)から伊達政宗公が招いた
榧森(かやのもり)又右衛門(1562〜1641)が酒蔵と屋敷を与えられ、酒造り
を行ったと伝えられ、江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。
又右衛門は仙台城内詰の御酒御用を命じられ、苗字帯刀も許されていたという。
酒造りには、この付近にある「清水門」の名前の由来となっている
湧き水が用水として用いられた。寛永5年(1628)に政宗公が
若林城(現在の宮城刑務所)に移ると、
又右衛門もそれに従い、若林で酒造を続けた。榧森家は、
初代又右衛門から幕末・明治期の12代孝蔵にいたるまで、
江戸時代を通じて仙台藩の御用酒屋をつとめ、ぶどう酒、みかん酒、
びわ酒、みりん酒等も造ったと伝えられている。
(案内板より)
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| 清水門跡(工事中だった) |
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三の丸と沢の曲輪の境目に当たる門で、正保年間(1644〜47)の
城絵図では入母屋造屋根、二階建の楼門となっているが、
創建年代や変遷は不明。清水門の名は仙台藩の御用酒造りに
利用された清水が右脇にある事にちなむ。(案内板より)
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| 移築門(宮城県知事公館正門) |
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切妻造の四脚門と呼ばれる形式の門で、屋根は本瓦葺。この門は、仙台城に
あった門を、大正年間に当時の第二師団長官舎の正門として、この地に移築
した物と伝えられ、仙台城の面影を伝える数少ない遺構の1つとされている。
建築年代は幕末と見られているが、仙台城のどこにあった門かは明らかでは
ない。扉は移築時に新しくつけられたもの。また、昭和46年には屋根の復元
修理が行われており、鯱はこの際にのせれられたものである。
(宮城県・宮城県教育委員会の案内板より)
(青葉区広瀬町5-43)
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| おまけ |
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(左)九曜紋の街灯(^^)
折角だから、点灯したところも、
写せばよかったな。
(右)夜にはこれもライトアップ。
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