みやざきけん とのこおりじょう
■都於郡城(別名=浮舟城)=見学自由
駐車場=無料駐車場
【左】二ノ丸から西ノ城方面。
2011/5/2現在
住所=西都市都於郡町
この時は、東九州自動車道 西都I.C付近の県道18号を西へ、道なりに進んで、
高屋温泉を過ぎ、少し先の案内板に従って右折。
進んでいくと、左側に駐車場。斜め右側にも駐車場がある。
工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、建久元年(1190)正月、 鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられた。 その嫡男である伊東祐時(すけとき)から6代目の祐持(すけもち)は、足利尊氏に従って 勲功を認められ、建武2年(1335)都於郡300町を賜り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向してきた。 都於郡伊東氏としては、祐持が初代の城主ということになる。 その後、2代目伊東祐重(すけしげ)が山城としての都於郡城の築城工事を行った。 築城の模様については、「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されている。 築城に際しては、本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神・彦火々出見尊)を掘り、 出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられている。 都於郡城の主体部としては、本丸、二ノ丸、三ノ丸、 西ノ城、それに奥ノ城の5つの曲輪がある。この内城としての 五城郭は、一名「浮舟城」とも称されていた。 この五城郭に対しては、外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城等が内城を取り巻くように築城されている。 また、各郭の縁辺部には土塁が構築され、曲輪と曲輪との間には空堀も造られて、外敵防御体制をとるようになっている。 南北朝以来約240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握した伊東氏も、 10代目伊東三位入道義祐(よしすけ)の時代、天正5年(1577)12月、 都於郡城落城と共に一族を連れて豊後に落ちのびていくことになり、伊東氏の栄華は終わりを告げることになる。 (案内板より・(左)伊東氏の全盛と四十八城の案内板。)
【左】道路に入口の案内板、標柱も立つ。
【真ん中】この付近に説明板も。
【右】勇ましいお顔!刀が凄いことに(笑)
【左】地図の案内板のある駐車場。
【右】(切り取り加工)立派な土塁や伊東氏の城の説明板がある駐車場。今回はここへ。
【2枚】右上の切り取り加工した写真の伊東氏の城の説明板がある駐車場の土塁。
【右】左の写真の左側。
【左】この付近かな?
【右】中馬場と下馬場の間の道方面。
【左】下馬場のすぐ近くの中馬場。標柱も立つ。
【真ん中】中馬場左側の道を進んで…。凄い土塁。
【右】真ん中の写真の奥。
【左】中馬場の左側の道から土塁が見えた(^^)
【真ん中】中馬場の道から出てきて、本丸へ向かう道から土塁を。
【右】分譲地の旗がいたる所に見られ、売家もあったりして、そのうちガラッと変わりそう…。