【左】奥ノ城と本丸北側の道を西へ。
【真ん中】本丸北側の土塁。圧倒される。
【右】本丸と二ノ丸の堀切方面へ。
【左】幅が広い!ビックリした(@@)左が本丸、右が二ノ丸。
【右】逆から。
【2枚】本丸から見下ろして。奥が二ノ丸。
【左】上から見下ろすと、幅の広さだけでなく、土塁の高さも実感できた(^^)
【左】二ノ丸と本丸の堀切から本丸へ。
【真ん中】本丸内から虎口を。
【右】本丸は、二つの曲輪になっていた。
写真は本丸北東の土塁。どこから見ても、高さに圧倒される。
伊東氏は、都於郡城を拠点に日向一円を掌握したが、その中心部にあたる本丸の一部分について発掘調査を行った。 その結果、多数の柱穴が検出され、伊東氏が在城した240余年間、建造物が何回となく建築補修された事等が考えられる。 また、16世紀前半頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土しているが、 この時期は、10代城主・伊東三位入道義祐の時代にあたり、義祐が飫肥方面に勢力を伸ばし、 南方貿易に尽力した結果、この様な中国磁器類が流入したものと推定されている。(案内板より)
【左】本丸南側の曲輪は、2分になっている辺り等、土塁が見られる。
【右】真ん中の写真を角度を変えて。素敵(笑)
【左&真ん中】北側の曲輪にも土塁が巡る。
【右】北西から南側方面を。
【3枚】印象的だったのがこの土塁。存在感ある〜。
■天正遣欧少年使節・伊東満所(マンショ)…落城後、豊後への落人の中に、 都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていた。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学したが、 天正10年(1582)2月には天正少年使節4名 「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」 の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、 天正18年(1590)に長崎に帰ってきた。(案内板より)
【右】伊東マンショの像の背後にあって、石碑も立っている。
【左】本丸東側の虎口への石段と伝説高屋山上陵と本丸跡と書かれた石碑。
【真ん中】上から。
【右】本丸側から。
【左】本丸から二ノ丸を。左側に登り口がある。
【真ん中】写真だと凄そうだけど、すぐ虎口。
【右】二ノ丸内から虎口を。
二ノ丸は本丸と空堀を隔てた西側に位置し、五城郭の中でももっとも古い時期に築城されたものと思われる。 二ノ丸の南側には高い所で約2mの土塁がほぼ原形を留めているが、伊東氏の時代には二ノ丸全体に巡らされていたと考えられる。 本丸が二ノ丸と比較して一段低い位置にあることから、二ノ丸が中心的な戦略的拠点となっていたのではないかと推測される。(案内板より)
【真ん中】二ノ丸では、高さのある土塁が見られる(^^)
【右】本丸から、堀切りを挟んで、二ノ丸の北東の土塁を。
【左】二ノ丸の南側下にある曲輪。
【真ん中】二ノ丸から道路を挟んで。曲輪っぽいなぁ…と眺めてた。
【右】1番奥に見えるのが西ノ城。
手前が、三ノ丸。凄いなぁ!と思ったと同時に、あそこまで行くのかと…(^^;)