【村上城 その1】

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新潟県 村上城 にいがたけん むらかみじょう
■村上城(別名=舞鶴城)=見学自由
■臥牛山
駐車場=登城口付近に数台。駐車場というよりは、
      路駐みたいな感じ。  (2006.7.30現在)
住所=村上市本町
この時は、鶴岡市方面から村上市方面への国道7号を進み、 仲間町信号を過ぎて、次の牛沢交差点を(村上市街へ)右折。 T字を右へ行き、1本目の路地を右へ入り、神社を過ぎて写真館を右折。 そのまま道なりに進むと、村上城の案内板があって、そこを右折。 東北電力の前を通って、突き当りを左折すると登城口。

村上城
この城は、室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地だったが、慶長3年(1598) 国替えでこの地に入った村上頼勝が大改造を加え、その後、堀直竒、松平直矩 によって本格的に築造され、三層の天守がその偉容を誇っていた。 しかし天守は、寛文7年(1667)に落雷によって焼失し、以後、建立されなかった。 現在は、臥牛山上の本城の諸郭や門、天守、櫓の跡がよく原形をとどめ、特に 300有余年の風雪に耐えた高石垣は当時の石工技術と力学の結晶である。 別名、舞鶴城とも呼ばれた。
村上城跡は標高135mの臥牛山を中心に広がり、築城年代は16世紀初頭と推定される。 城主は国人領主の本庄時長であり、以降、房長・繁長と戦国期三代にわたる居城となる。 江戸期の元和4年(1618)には、徳川譜代の堀直竒が10万石で入封し、縄張りを行い、 山上の曲輪を拡張し、石垣を築くなど、それまでの中世的な城を近代城郭へと 変貌させた。 総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km。山上は本丸、二の丸及び三の丸からなり、 西側山麓には城主居館が配され、東側には大小の曲輪が設けられていた。 慶安2年(1649)、譜代の松平直矩が15万石で入封すると、家臣数の増加に伴い、 再び城と城下の改築に着手する。現存する石垣の多くが、この時積み替えられた ものと推定される。 村上城は、地形を巧みに利用した戦国期の遺構と、新潟県下最大規模の江戸期の 石垣と共存している事が他に類を見ない最大の特徴で、中世と近世の 両方の遺構を散策する事が出来る。 (村上市の案内板より)
村上城の地図 (写真をクリック→拡大) 村上城跡石碑
←この地図は四ツ門跡付近のもので、出発地点は下のぐねぐねの17番。
一文字門跡 一文字門跡付近の城址碑 一文字門跡付近の石垣
駐車場というよりは、スペースに駐車するという感じで、 一文字門跡の手前から石垣くらいまでって感じ。
近世城主居館跡 一文字門跡からの登り口 七曲り道
今では、村上城児童公園。 七曲り道というだけあって、大変(笑) 山なんだから仕方ないんだけど(^^;)
四ツ門跡の石垣(多聞櫓跡) 四ツ門跡の石垣から御鐘門跡の石垣
七曲り道を登り切ると、四ツ門跡の石垣がド〜ン! ←から振り向いて上を見ると、御鐘門跡の石垣が見える。
四ツ門跡 四ツ門跡左の三の丸虎口 三の丸
由来は、四つの門に通じるから。 虎口には低い石垣が残っていて、その中は跡の案内棒が立つだけの状態。
靱櫓跡 武具倉跡 玉櫓跡
三の丸の左奥の端に靱櫓跡、右奥の端に玉櫓跡。その間に武具倉跡。夏だから、草の中をサクサク歩く(笑)
四ツ門跡を振り返る(左=来た道、右=二の丸方面から、三の丸方面)
四ツ門跡の来た道を真っ直ぐに行くと、中世遺構散策コース。 夏なので、蚊がいっぱい!今回はパスと言う事で(笑)
御鐘門跡(上には多聞櫓)パノラマっぽく…
四ツ門跡を少し上に行くとすぐにこんな素敵な石垣が(^^) それにしても、大きいから2枚で(笑)
工事中の二の丸 ブルボン 修復中の出櫓跡石垣
工事中なので、迂回路を通る。その時に見えた長〜いブルボンの工場(^^) かなり崩れている状態!
黒門跡 本丸の石垣 平櫓跡
出櫓跡の左側(囲いの中)に棒。 出櫓跡左から広がっている本丸石垣。 本丸の石垣の近くにひっそり。

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