おかやまけん こうらくえん
■日本三名園…
(金沢「兼六園」、
岡山「後楽園」、茨城「偕楽園」)
入園料金=大人350円(後楽園等共通券あり)
開園時間=7時半〜18時(4/1〜9/30)
=8時〜17時(10/1〜3/31)
駐車場=近辺の有料駐車場
2004/12/28現在
住所=岡山市後楽園1-5
(この時は岡山城がメイン)備前市方面から国道2号線を岡山市街地方面へ走り、
県道402号を進み川(新鶴見橋)を渡って2つ目の信号を左折。
そのまま進んで岡山美術館前を過ぎ、城下交差点を右折。すぐ右の車線の地下駐車場(有料)を利用した。
近場だと城下交差点を左折して少しすると、左側にあった。
その後は石山公園の中を通り、左側の橋を渡ると後楽園。
後楽園だけならもっと近い駐車場へ!!
岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)に一応の完成をみた。 その後も、藩主の好みで手が加えられたが、江戸時代の姿を大きく変える事無く、現在に伝えられてきた。 また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知る事が出来る、地方では稀な大名庭園。 後楽園は、かつての藩主の静養の場、賓客接待の場として使われていたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていた。 明治17年(1884)に岡山県に譲渡され、一般公開された。昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災で大きな被害を被ったが、池田家の絵図に基づき復旧を行った。 名称は、岡山城の後に造られた園という意味で後園と呼ばれていたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られている事から、明治4年(1871)後楽園と改められた。
【パノラマっぽく加工】唯心山から見た後楽園全体。
■廉池軒…戦災を免れた数少ない建物の1つで、池に架かる石橋や対岸の小島等も、往時の姿を今に伝えている。
この建物からは沢の池越しに見える松林や曲水と池の段差等、起伏に富んだ景観を眺める事が出来る。(案内板より)
■八橋…曲水に板を渡した八橋のそばには杜若がある。
「伊勢物語」の「東下り」の段にちなんだ、風雅な情景となっている。(案内板より)
■唯心山…池田綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化した。
山腹には唯心堂があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られる。(案内板より)
■花交の滝…築庭当時、この一帯は山桜と榎の並木道だったが、幕末頃には深山を思わせる林となった。
この先、曲水は幅が狭くなり、大きな音を響かせるよう工夫された石組の滝から勢いよく池へと流れ落ちる。(案内板より)
■新殿…幕末頃に出来た建物で、もとは新御殿と呼ばれていたが、明治時代から新殿と呼ばれるようになった。
銅板葺で、高床となった十畳の座敷からは、園内南西の景色を広々と眺める事が出来る。(案内板より)
■井田…昔は園内に広く田畑が作られていたが、今は井田だけがその名残を伝えている。
井田とは中国周時代の田租法で、本園では幕末に田畑の一部を井田の形に作った。毎年7月の第1日曜日には、お田植え祭を行っている。(案内板より)
【真ん中】柿のオレンジがきれい♪
■花菖蒲畑…6月上旬には白や紫等の見事な花を咲かせ、梅雨の季節に趣がある。(案内板より)
■梅林…梅林は幕末近くなって出来た。
今では紅白あわせて約100本の木が他の花に先駆けて春を告げ、詩歌の題材として好まれている。(案内板より)
■平四郎の松…初代の松は樹齢300年近い大木だったが、枯れた為、今は二代目の松。
伝説によると、後楽園を作る前、この辺りに住んでいたという名主、兵四郎の庭先にあった松を残したといわれている。(案内板より)
■千入(ちしお)の森…春の芽吹きと、錦織りなす秋の紅葉が美しい楓林で、古くから園内の名勝の1つ。
千入とは幾度も染めるという意味で、築堤当時からこの名がついている。(案内板より)
■茶畑…築庭当時からこの位置にあり、背景の緩やかな曲線を描く土手山と調和している。
江戸時代には、ここで作った葉茶は、藩主が普段に飲むお茶として使われた。(案内板より)
閉園時間ギリギリまで見て回ったので、こういったものは全部閉ってます(笑)