おおいたけん くるしまじんや
■久留島陣屋(別名=森陣屋)=見学自由
■三島公園
駐車場=無料駐車場
(写真)清水御門。
2011/4/30現在
住所=玖珠郡玖珠町森
大分自動車道 玖珠I.Cを下りて、国道387号を宇佐・耶馬渓方面へ右折。
右側の小学校を過ぎて、国道387号が右斜めになる信号で左折。
すぐに右折。その先の鳥居のある十字路で右折。案内に従って、次の道を左折。
三島公園の駐車場の案内に従って、少し先の道を左折で駐車場。
(駐車場は手前からも入れるが、車高が低いと厳しい。)
■角埋城跡とお城仕立ての末廣神社…角埋山は天然の要害で中世の山城として、
天正年間の豊薩戦では、豊後不落城の1つであった。山頂には角牟礼城跡があり、
戦国時代の武将織田信長が安土城を築城する際に用いた石組の工法、いわゆる穴太積みによる石垣や縄張りが、
今でも築城当時のまま残され、照葉樹の多い自然林があり、保険保安林になっている。
源為朝を祀ったという巨大な木造の不動尊立像が安置されている角埋神社もあり、展望が素晴らしい。
瀬戸内海の水軍であった久留島氏は、角埋山の麓に館を構えたが、幕府の掟で城を持たれぬ小大名であった。
森藩では、角埋山は「大切之御山」としていたが、8代藩主通嘉の時に、氏神である三島宮(末廣神社)の改築を思い立ち、
境内をお城仕立てに作り上げた。通嘉公の豪快さと雅趣を兼ね備えた気質のよく表われた普請は、
一藩の主としてお城を持ちたいと言う願いが込められていたに違いない。(ふるさと市町村圏基金事業の案内板より・絵図も)
■末廣神社の由緒…慶長6年(1601)初代森藩主・久留島康親公は、藩の守護神として「三島宮」を愛媛県大三島より御勧請鎮祭した。
その後、文化文政の頃、第8代久留島通嘉公によって境内並びに御神殿、拝殿その他の建物などが造営整備され現在の姿になった。
明治5年になって、当地方に以前より祀られていた「妙見宮」を合祀して社名を「末廣神社」と改称し、現在に至っている。(末廣神社の御案内の案内板より)
【左】見学後に駐車場へ戻ると、満車!
【真ん中】遊具が結構ある。
【右】浮いた黄色い棒を両手に持つコアラ…(笑)
【左】C11270。可愛い愛称がある機関車(^^)
【真ん中】角牟礼城がある角埋山が見える。
【右】きれい〜♪
【左】久留島武彦生誕之地の碑。
【真ん中】日本一桃太郎像。
【右】知福童子。
【真ん中&右】小倉の到津遊園(到津遊園は閉園。現在は、到津の森公園に。)に、
あったものなんだとか。
【左】平和記念碑。
【真ん中】桃太郎誕生像。凄い顔なんですけど…(@@;)う〜ん。
【右】金太郎像。
【左】写真右側に立つ童話碑の辺りが御殿跡らしい。
旧久留島氏庭園は、末廣神社を中心に、それぞれ独立した藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園となっている。 この庭園が藩主御殿庭園で、御殿は池の東側にあったといわれている。南北に細長い池を掘り、山の斜面には枯滝を設けている。 池の中央対岸よりに小島を設け、それに反り橋と平橋をかけて対岸に渡れるようにしている。 池の護岸には巨石を多く用いているが違和感がなく、石組や庭景をうまくまとめている。 作庭時期は、8代藩主通嘉により始められた大規模な神社造営の1つとして、土佐出身の築庭師である橋本東三により造られたといわれている。 江戸時代後期造営であるが、随所に江戸時代初期の作風が見られる。(玖珠町教育委員会・玖珠町文化財調査委員会の案内板より)
地団駄を踏んで泣き出すなんて、本当に大変だったんだなぁ(^^;)
三島神社大改修の際、人夫頭長尾喜藤次は、村人を使い森奥の八重垣から、これを引き寄せたと言う。 あまりの巨石に運搬は遅々として進まず、さすがの喜藤次も精根尽きて地団駄踏んで泣き出したと言われている。 ここの庭景の中心をなす枯滝石組が正面に眺められる場所でもあり、 また三島神社の礼拝石の役目を持つとも考えられている。(玖珠ライオンズクラブの案内板より)
■御長坂…古記録に「長坂道」と記されている御長坂は、お城仕立ての境内によく似合う参道で、 上り詰めると右上に忍者返しの石組があり、さらに進むと栖鳳楼・末廣神社拝殿・御神殿(鞘堂づくり)に辿り着く。 (ふるさと市町村圏基金事業の案内板より)
【左】麓側から末廣神社方面を。石畳が素敵だなぁ。
【真ん中】神社側から御長坂を。凄いカーブ!
【右】御長坂から見る角埋山(角牟礼城)。民家側にも石垣が見られるけど、昔ながらなのかな(^^)
【左】御長坂を上がると、城跡を思わせる石垣が♪
【真ん中】神社へ向かう途中に鐘櫓跡が。
【右】素敵な石垣と石段!