おおいたけん なかつじょう
■中津城(別名=扇城)=見学自由
天守=400円
開館時間=9時〜17時
駐車場=無料駐車場
2008/8/10現在
住所=中津市二ノ丁本丸
(この時のアクセスは微妙なので、参考までに。)
この時は、県道23号を豊後高田市から中津市方面へ進み、
途中で市街方面の23号を走って、そのまま県道23号を進み、
途中で県道108号を福岡方面へ。少し先の中津市歴史民俗資料館付近の
信号を右折。そのまま進むと中津城。
【左】小さい説明版の写真をクリック→拡大。
【右】北が右側になっているので、方角に注意。
中津城は、地形が北より南方に扇状をなしているので、別名扇城という。 中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)黒田孝高(よしたか…如水)が、 豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。 軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤)によってふさがれた)、 北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。 孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に取り掛かったが、 度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ケ原の戦い等の功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。 黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見2郡の領主として入部した。忠興は最初、中津城を居城とし、弟の 興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し、忠利が中津城を居城とし、大規模な小倉城築城を始めた。 元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請を一旦中止した。 小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。 元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は(三斎と号す)、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。 元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二の丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。 寛永9年(1632)細川氏の肥後54万石で転封により、小笠原長次が中津8万石の藩主として中津城に入り、城下町の整備を行った。 享保2年(1717)奥平昌成(まさしげ)が10万石の藩主として中津城に入り、以後、昌邁(まさゆき)まで続き、 明治4年(1871)廃藩置県により中津城は廃城となった。(中津市・中津の郷土史を語る会の案内板より・絵図も)
写真は、奥平家の家紋の瓦。
村上天皇を祖とする奥平家は、群馬県甘楽(かんら)郡を発祥とする関東武士であった。 三河の国に移り、奥平家第26代貞能(さだよし)公を以って初代とする。 嫡男・信昌公は三河の国・長篠城主で、天正3年(1575)天下統一を目指す武田勝頼軍1万5千騎と28日間にわたり激戦・タニシを食べて籠城をし、 落城寸前で織田・徳川連合援軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収めた。 この軍功(長篠の合戦)により信昌公は、家康公の長女・亀姫を娶り、徳川幕府300年の親藩となる。 亀姫は4人の男子をもうけ、長男家昌公は奥平宗家を継ぎ、二男から四男は家康公の養子となり、松平姓を名乗った。 四男松平忠明は、初代大坂城主や姫路城主も務めた。 奥平家は長篠の合戦後、愛知県新城城・岐阜県加納城・栃木県宇都宮城・京都府宮津城を経て、享保2年(1717)奥平家第7代昌成(まさしげ)公が、当地中津に入城する。 以後9代にわたって藩政の改革や蘭学の奨励など数多くの功績を残し、第15代の昌邁(まさゆき)公まで155年間中津で活躍し明治維新を迎えた。 藩祖を祀る奥平神社では、長篠の合戦当時を偲び、毎年5月21日に「たにしまつり」を盛大に執り行っている。(案内板より)
【左】本丸側から。なかなか素敵(≧▽≦)【右】東側から。
天守は昭和39年、東京工業大学・藤岡通夫博士設計のもの。 大鞁櫓は、城主の馬具等を格納する所。
展示品。
【右】コロンと2個転がっているのが、細川忠興の蛸壷なんだとか。最初、何かと思った(^^;)
【3枚=パノラマっぽく加工】
西〜北側の中津川(^^)左に見えるのが、小祝橋で、右側が北門橋。
【左】北東側で、空き地になっている付近が、御花畑跡。その奥が三の丸跡。
【右】南東側。
【左】真ん中にチョコチョコ白く見えるのが車で、左から2番目が実家の愛車♪
【真ん中】松の御殿跡(中津神社)方面。
南の入口(右の写真)から本丸へ入って、右の椎木御門(左の写真)へ。
トイレの屋根がどうしても入るなぁ(^^;)
【左&真ん中】表&裏。
【右】南から椎木御門へ。
中津城が築城される以前、この場所には、二重の溝に囲まれた中世(15〜16世紀)の館跡があった。 高石垣を積む近世の城とは違い、溝の壁には石が貼り付けられており、溝の間には土塁があったと考えられている。 中津城築城当初の地層からは、最大径1.6m、厚さ70cmの大型な礎石や、「せん」というタイル状の瓦が多量に出土した。 また、表面に仏を意味する梵字や日付などを墨で書いた大きな石が出土した。 中央には丸い穴が掘られており、仏舎利などが収められ、地鎮に使われていたと考えられている。 これらの遺跡から、この地には黒田氏の時代に寺院があったことが分かった。 1600年に入国した細川氏は寺院を二の丸に建築し、本丸内の寺院は姿を消した。 近世の城では本丸内に寺院を建築することは無く、黒田氏の時代はまだ近世の城郭のスタイルが確立されていない時代であったといえる。 (中津市教育委員会の案内板より)
【左】内側から。手前の石垣が工事中だった。
【真ん中】ちょっとした桝形を通り(左折れ)出たところ。
【右】外側から。
江戸時代の参勤交代や江戸藩邸定住などの諸緩和令により、中津藩の江戸藩邸より帰郷する諸姫君を住まわせるため、 文久3年(1863)8月に、本丸下ノ段西側のこの地に新殿を建築した。名称は「松の御殿」。 以来8年間、ここで生活した姫君達は、明治4年(1871)7月の廃藩置県で、同年9月片端町の立木深邸に引き移った。 その後「松の御殿」は小倉県に、続いて大分県の中津支庁舎として使用される。 明治10年(1877)3月、西南の役に参戦する「中津隊」(隊長 増田宋太郎)の襲撃にあい灰燼に帰し、 その跡地に中津神社が明治16年(1883)3月に建立された。(中津市・中津の郷土史を語る会の案内板より)
【左】外側から。
【真ん中】こちらは、なんだかちょっと味気ない(^^;)
【右】左の写真の左側に続く石垣を。