【左】中津川側から。天守がひょっこり(^^)
【右】中津川、北御門跡方面を。この辺りかなぁ?と思いつつパチリ。
広角レンズで写したかったなぁ〜。
右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(よしたか…如水) 時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、 忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。 (中津市教育委員会・中津の郷土史を語る会の案内板より)
天気が良かったから、素敵な写真になって嬉しい(≧▽≦) それにしても、出っ張っているのが凄いなぁ♪
【左】薬研堀の中には、白鳥や鴨が♪
【真ん中】写真奥が、椎木御門への入口。
【右】時折、大きな石も使われていたり。
■二の丸長福寺儒学堂址…細川忠興公が、小倉城の修築を終わり、中津城の修復城地町割が判定したのは、元和6年(1620)頃である。 忠興、忠利父子は、かねて切支丹信仰の念も深く、関ヶ原役の時、石田三成の人質となるのを拒み、 非業の死をなされたガラシャ玉夫人の冥福祈祷(ミサ)のこともあり、城内二の丸に長福寺を建立し、 本尊に秘佛マリア観音像を安置して、外人宣教師を招き、年々大ミサを行ったという。 現在、中津に残る織部灯籠(かくれ切支丹灯籠)も長福寺へ供奉された遺物であると伝えられている。 徳川の禁教令が厳しくなってからは長福寺は廃れ、小笠原・奥平時代には二の丸孔子を祀る儒学堂となり、 儒学堂の塾として活用せられ、釋奠(せきてん)祭(孔子の祭)をはじめ、藩公直参の儒学祭(漢学祭)が行われた。 中津は江戸末期まで、儒学の盛んな地であったが、この二の丸儒学堂が中心であった。 (中津市教育委員会・中津の郷土史を語る会の案内板より)
【真ん中】案内板の下の道路に礎石が♪
【右】黒御門跡から大手門跡へ行った後に写したもの。本丸方面を。
南部小学校の校門の石垣。
中津城三の丸の東端に位置する大手門(追手門)は、「馬出無しの桝形虎口」である。 中津城の外堀より三の丸(大手門)に入ると、そこは前方と左右の三方を大石で囲んだ奥行き約13間(23m)、巾約3.3間(6m)の「桝形」がある。 面積約43坪(138u)の大手門「桝形」は騎馬武者であれば、約30騎(共武者60人を含む)、徒士武者であれば約250人が収容できる。 桝形の前方右側には、黒田如水によって滅ぼされた犬丸城の古材木を使って造られたといわれる「矢倉門」型の大手門があった。 (中津市教育委員会・中津の郷土史を語る会の案内板より)
【パノラマっぽく加工】長い方がいい気がして頑張ったら、真ん中が膨らんでしまった(^^;) ま、自己満足ということで…(笑)
黒田氏側がメインの写真になってしまった(^^;) 説明文の中の「昔の技法を復元することを目指し〜」って凄い!見る方も嬉しくなる(^^)
■櫓と堀…石垣の角の石(出角)の右側が黒田時代、左側が細川時代のもの。
黒田時代の出角は、自然石の形を利用して角を作っているが、細川時代の出角は加工した石を使用している。
最も古い石垣には、水平に細長い石を使用しているが、左側は小さく丸い石が多く使われている。
また黒田時代の石垣が低く途切れた場所から礎石が出土し、櫓跡が確認された。
しかし、細川時代には櫓を埋め、石垣は高く幅広く造りかえられた。
石垣の下には松ノ木(胴木)を敷き石垣が重みで沈まないように工夫されていた。
堀の底は外側へ向かって傾斜しており、より攻められにくいつくりになっていた。
堀からは金箔を貼った瓦や桐の模様の瓦などが出土しており、
石垣上に櫓などの立派な建物が立ち並んでいた様子がうかがえる。
■石垣の特徴…中津城は1587年に入国した黒田孝高が1588年から築城に着手した城で、
九州最古の近世城郭の1つである。同じ年に建築された他の城はその後破却されたため、
九州で唯一当時の石垣が地表面に見えるのが中津城。石は全て未加工の自然石を使用している。
小さな石を乱雑に積んでいるように見えるが、自然石の特徴を活かした積み方で、
石の奥行きは長く、縦目地横目地が通らない。
これは石垣建築では最も高度な安土桃山時代の技法で、当時、穴太衆と呼ばれる石垣造りを得意とする集団が用いた技法で、
穴太積みと呼ばれている。中津城の石垣造りにもその技法を持った石工が関わったと考えられている。
石垣は反りが無く直線的だが、両端より中央の方がより傾斜し、さらに真上から見ると緩やかな弧を描く。
これを「輪取り」という。力を内側に集中させ、地震などがあっても前に崩れにくい工夫がされている。
現在では、この技法は廃れてしまった。中津市では、昔の技法を復元することを目指し、
石垣の文化財としての価値を損なわないよう、解体から復元まで慎重に工事を進めてきた。
解体修復工事は石垣が傷んでいる部分のみ行っている。(中津市教育委員会の案内板より)
水御門跡から歩いてすぐのところ。
中津城の西南隅に位置する西門は、大手門と同じ「矢倉門」型と思われる。 豊前街道の発着所「小倉口」に1番近い西門は、堀の巾を広くとり、その奥に三方を大石で囲った「桝形」をもつ「搦手門」である。 武器や道具類が収めてあったこの櫓門は、明治2年(1869)10月、放火により焼失した。(中津市教育委員会・中津の郷土史を語る会の案内板より)
中津城 2008.8.10記
ず〜っと気になっていた中津城。大分だけに、なかなか来れなかったんだけど、お墓参りのついでに、来ることができた(≧▽≦) ただ、この日は暑い真っ盛りのお盆。なのに飲み物を持参せずに行ってしまって大失敗!歩けど歩けど、自販機が無くてマイッタ(@@;) 散策しなかったうちの親も、「暑いなぁ…。」と、へたっているくらい(^^;)どれだけの暑さ!? しかも雲の動きが速くて、途中から雷がゴロゴロ…(^^;)幸い、雨は降らなかったけど(^^) さて、ここは模擬天守なんだけど、石垣に乗っかっている姿は格好いい(≧▽≦)アングルで楽しめるし。 他にも、黒田さんと細川さん時代の石垣部分や、少し歩けば門跡の石垣も見ることが できたし大満足♪そういえば、池の中に大きな亀がいたんだけど、可愛かった〜(^^)