おおいたけん つのむれじょう
■角牟礼城=見学自由
■角埋山
駐車場=無料駐車場
(写真)搦手門下の石垣。
2011/4/30現在
住所=玖珠郡玖珠町森
この時は、大分自動車道 玖珠I.Cを下りて、国道387号を
宇佐・耶馬渓方面へ右折。右側の小学校を過ぎて、
国道387号が右斜めになる信号で左折。
すぐに右折。その先の鳥居のある十字路を左折。
道なりに進んで、案内板に従って右折。急坂を上がっていき、
行き止まりに駐車場がある。
角牟礼城は、標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。 天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岸壁で囲まれている。 角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475)の志賀親家文書である。 その後、天文2年(1532)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、 角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。 天正14年、15年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。 文禄2年(1593)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、 翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。 慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配した事が、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。 今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。 従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配の 為の近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。 そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、 一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。 しかし、来島は1万4千石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、 山城は「正保の絵図」(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。 平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、 また二の丸には礎石建物が発見されている。2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。 (玖珠町教育委員会・玖珠町文化財調査委員会の案内板より)
【左】案内があるので、迷わず城跡へ♪
【真ん中】岩の間の道が狭く感じるけど大丈夫。
【右】行き止まりが駐車場。
【左】手前が駐車場で、奥が来た道。ということで、少し後戻り(^^)右側の三の丸の石垣がいい感じ♪
【真ん中】左の写真の左側。巨岩の横には、石積みが♪木の下の穴(=写真真ん中)は、何か意味があるのかな?
【左】駐車場側から。凄く素敵♪
【真ん中】左の写真を反対側から。
【右】搦手方面へ向かう所にも(^w^)
【左&真ん中】三の丸から搦手方面へ向かうと、竪堀群が♪
【右】竪堀後、曲輪っぽい所が。
【左】竪堀の所からすぐ。左の石垣を上がると搦手門跡、水の手曲輪へ。
この石垣が穴太積みで、凄く格好いい!
【真ん中】こちらも、長く続いて素敵〜!
【右】角牟礼城の幟♪風が無くなった時を、すかさず狙った!
角牟礼城跡で1番立派な石垣であり、「穴太積み」の特徴をよく残す石垣。 高さ約7.5m、長さ約100mの石垣は、自然石を無造作に積み上げられているが、 そこには計算されたバランスがあり、堅固な石垣となっている。(玖珠町教育委員会の案内板より)
どこから見ても、格好いい〜(^w^)苔むした緑の石垣が、グッとくる。
角牟礼城跡では、南側にある城門で、井戸曲輪に入る虎口でもある。 東側の通路を上り詰めると右手に、礎石建物跡が検出されている。 礎石は、大手門の櫓門と同規模で、瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか、近接した年代が考えられる。 (玖珠町教育委員会の案内板より)
【左】水の手曲輪から見下ろして。坂を上がり詰めた所が搦手門跡。
【真ん中】搦手門跡。右が櫓跡。
【右】振り返り。
【左】搦手門跡の奥には、水の手曲輪(井戸曲輪)。
【右】馬洗い池かな?側面の石垣がよかったな〜。
【左】井戸かな。枯葉で水が見えないけど、容器には入っているし。
それにしても、岩の隙間が、真っ暗だからちょっと怖い(^^;)
【右】曲輪内には、低い石積みも見られた(^^)
【左】二の丸へ向かう途中、見下ろして。
【真ん中】水の手曲輪(井戸曲輪)から。朝8時40分の眺めは気持がいい〜。
【右】可愛い花が咲いてたので、撮ってみた♪