【左】二の丸の土橋から鉄門の桝形方面。写真右側が空堀。
【真ん中】鉄門の桝形の石垣。1番右奥が武具櫓。
【右】真ん中の写真の石垣の内側。桝形の大きな石が目に付いた。そういえば、地面の円形は何かな?
【左】鉄門跡から桝形方面を。左の石垣の右側が鉄門跡(^^)
【真ん中】鉄門跡の石垣を♪
【右】真ん中の写真の左側面。
【左】右上の写真の石垣に、はっきりとした「大」が(^w^)♪
【右】上真ん中の写真の石垣にも刻印の様なものが(^^)
【左】鉄門跡(右の石垣=鉄門横の石垣)を通り、武具櫓跡(写真左側)へ。
【真ん中】上方に、チラリと石垣が♪
【右】二の丸と本丸の空堀から。手前の石垣が武具櫓。写真で気付いたけど、+字等の刻印の様なものが♪
【右】本丸は宗麟公。
江戸時代、空堀から東側の一帯を本丸と呼んでいた。 この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていない。 ただ、江戸時代の二の丸よりも標高が低い所にあるため、大友氏の時代には、こちらが二の丸だった可能性がある。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となったが、初代藩主・稲葉貞通と典通(後の2代目藩主)は、 本丸防衛のため、空堀を整備し、二の丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けた。 土橋を渡るとすぐの所に鉄門という櫓門を設け、本丸の出入口を固めた。 空堀は、天守櫓から見下ろす位置とし、二の丸からの侵入に備えたのである。 明治維新後、公園として整備され、今の様な姿となった。 江戸時代に入り、平和が続くと、藩主が政務を執行する空間「表」と、 藩主の生活空間「奥」としての機能を持つ本丸御殿が、中心的な役割を担った。 「表」も「奥」も、書院造りを基本としていた。現在残されている絵図(指図)によると、 「表」には、御広間、大書院等、政務遂行や儀礼に使われた部屋が見られる。 御広間等からは御舞台が見える構造になっている。舞台は、主に能に使われていたと考えられる。 一方、「奥」には、御座間と呼ばれる藩主の部屋がある。 本丸北側の崖際には御湯殿が設けられ、現在で言う展望風呂の様な状態になっている。 本丸御殿は、城下町や三の丸(現在の祇園洲地区等)から離れ、不便だった事もあり、 延宝4年(1676)主な機能を二の丸(西の丸)御殿に移転した。(臼杵市教育委員会の案内板より)
この場所にはかつて、三層四重(外観3層、内部4階)の天守櫓があった。 最近の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが、 豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった文禄3年〜慶長2年(1594〜1597)頃である可能性が高くなっている。 その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録がある。 このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、 本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)が、それぞれ独立的に建てられていたものを、 全て櫓でつなぐように改築されたことが、江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明した。 天守櫓がどの様な形状であったかは、正確な図面が残っていない為分からないが、1階の平面が6間四方(約11.7m)、 土台部分から最上階(4階)までの高さが6間一尺(約12.0m)であったことが記録されている。 ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示している。(臼杵市教育委員会の案内板より)
天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、 ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる野面積み工法をとっている。 一見、乱雑な積み方にも見えるが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、 表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っている為、非常に頑丈な造りとなっている。 これに対して、臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られた後の江戸時代に積まれたものだが、 これらの殆どが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積み方になっている。 見た目は整っているが、天守台石垣ほど強度が無いと考えられている。(臼杵市教育委員会の案内板より)
凄く整備されているなぁ…っていう印象が強かった(^^;)
【左&真ん中】走櫓跡。
【左】この辺りだと思うけど…。
【真ん中】写真奥の斜面の上。石垣の名残が…。
【右】海雲櫓跡。この辺りかなぁ(^^;)
【左】ここは亀の形の城で、丁度ここが亀の首の所の櫓跡(^^)
【真ん中】正面が海。周りが海だったなんてねぇ…。
【右】この上が亀首櫓跡。かつては、この崖の部分が長く飛び出ていたんだろうなぁ。
今あると不便だけど(笑)
いわゆる搦手口と呼ばれる城の裏門にあたる所で、井戸が設けられていたことから、井戸丸とも呼ばれていた。
本丸・二の丸があった場所は、かつて「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていた。
卯寅口には海へ通じる卯寅口門や階段が設けられていた。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようである。
「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれているが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではない。
なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道である。(臼杵市教育委員会の案内板より)
■井戸…寛永年間に掘られた井戸で、深さが10m以上あり、
昭和25年頃までは大きな木製の滑車を付けて水を汲んでいたが、今は使われていない。
またこの井戸は、水量も豊富で、海が近いにもかかわらず真水が出ていた。(案内板より)
【左】本丸から。きれいにおさまった。
【真ん中】上に、卯寅稲荷神社。
【右】海が近くて真水!不思議!
【左】崖があるし、卯寅口門跡?
【真ん中&右】卯寅口(井戸丸)に接する本丸の石垣を。凄いなぁ(^^)
卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根の櫓である。 現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854)に建てられたことがわかったが、17世紀前半の城絵図には、その姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられる。 延宝4年(1676)頃の本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓(おんてっぽうくすりやぐら)」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようである。 (臼杵市教育委員会の案内板より)
ちなみに、案内板には、卯寅口に駐車場の表示があるけど、「災害時の避難所及び緊急車輌進入路」となっていて、一般車両(自転車・バイクを除く)の駐車は出来ない…。
紛らわしい…。
【左&真ん中】冠木門と城址碑がある。
【右】卯寅口方面を。写真真ん中の建物の手前が非常用駐車場。