さがけん くきよしたかじん
■九鬼嘉隆陣
駐車場=無し
【撮影日】2019/1/3、2018/1/4、2017/8/17、2017/8/16、2013/6/19。
【左】県道301号を挟んだ所から見下ろして。(2017/8/17撮影)
2019/1/3現在
住所=唐津市鎮西町名護屋
標柱と陣跡は、名護屋城跡の北側の国道204号から北西の県道301号を北西へ進んで橋を渡り、織田秀信陣を過ぎた先の右側。
説明板は、県道301号を北上し、秋田実季陣跡の標柱が立つ波戸岬少年自然の家入口信号から西へ。
少し先の左側に「九鬼嘉隆と細川忠興」の説明板があった。
■九鬼嘉隆(1542〜1600)志摩国鳥羽城主…伊勢湾・紀伊水道・熊野灘一帯の海域を制していた水軍の有力武将。 織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕えて、その豊臣水軍の大将格として活躍する。 文禄の役では、主力戦艦である安宅船を率いて渡海し、藤堂高虎・脇坂安治らの水軍と共に、李舜臣(イスンシン)の朝鮮水軍とも戦う。 関ケ原の戦いでは、石田三成に味方して、子の守隆と対立したが、西軍の敗北により鳥羽城から退去し、守隆の助命が届く前に自害する。 なお、彼の陣跡は名護屋城北方の内陸部に位置しており、なぜか海に面していない。(案内板より)
【左】波戸岬での歴史探訪の道の案内板で、15番の旗の所に案内板がある。(2013/6/19撮影)
【右】15番の旗の所の案内板。(2017/8/16撮影)
(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【左】県道301号沿いの九鬼嘉隆陣から北上、秋田実季陣の標柱が立つ波戸岬少年自然の家信号から西へ。(2018/1/4撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真を左折して少し進んだ所に案内板。(2017/8/16撮影)
【左】案内板の所から。範囲が分からなかったので、漠然と眺めた。(2013/6/19撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真と同じ。こうやって見ると広範囲だったんだな(^^)(2017/8/16撮影)
波戸岬地区の中央に位置し、水軍の将の陣にしては、内陸部にある。 現在の国道によって陣跡は分断されているが、標高33.4mの丘陵上には曲輪と推定される平坦部や切岸等が残っており、 谷部にも小規模な曲輪が見られる。周辺には陣跡内に敷かれていたと思われる玉石がみられ、 また、西側の畑の中には、旗竿石が残っており、当時の姿を窺い知ることができる。(陣跡の案内板より)
【左】現地案内板より。県道を挟んだ所も跡だそう。(2013/6/19撮影)
【真ん中&右】説明板より。(2017/8/17撮影)
【左】(切り取り加工)県道301号を北上。写真右側に案内板や標柱があるけれど、県道301号、西側等と陣跡は広範囲。(2018/1/4撮影)
【右】九鬼嘉隆陣の標柱「九鬼嘉隆陣跡・志摩鳥羽」。(2013/6/19撮影)