さがけん かしまじょう
■鹿島城(別名=高津原館、高津原屋敷、鹿島陣屋)=見学自由
■旭ヶ岡公園
駐車場=無料駐車場(旭ヶ岡公園の駐車場は無く、
城内児童公園が駐車場)。
(写真)旭ヶ岡公園・東側入口の石垣。
2013/6/20現在
住所=鹿島市高津原
この時は、旭ヶ岡公園、鹿島高校、鹿島実業高校の案内に従った。
簡単そうで複雑で、アクセスが書けないので、縄張り図のPを参考にして下さい。
当初、鹿島藩2万石の城は、北鹿島の常広(北鹿島小学校一帯)にあった。 しかし、低平地のため度重なる水害に悩まされ、その復旧に要する費用も財政上の負担になっていた。 そこで、鹿島9代藩主直ノリ(表記出来ず)の時に、城を小高い丘陵地の高津原に移すことに決め、 幕府の許可を得て文化3年(1806)に地鎮祭が行われた。 蓮池藩と小城藩からそれぞれ人足1,000人の助力を受け、文化4年(1807)に鹿島城が完成した。 城の全体区域は現在の城内地区で、かつては郭内と呼ばれていた。 その周囲には堀や土塁をめぐらし、土塁には杉材の大きな柵が立てられていたという。 また四方に門があって、北に大手門、搦手門は鹿島高校南の鍋島宅横、東門は鹿島小学校そばの乗田宅横、 西門はヨイゴロ坂を下ったところに設けられた。本丸は現在の鹿島高等学校の敷地で、天守閣は無い。 大手門から本丸の正門である赤門までは、鍵型の折れ曲がった道が続き、道の両側には家臣の屋敷が立ち並んでいた。 本丸の南側には鹿島藩の家老であった原氏の武家屋敷が、当時の茅葺きのまま残され、 武家屋敷の象徴的な景観となっている。右の絵図は、明治初期の本丸の建物の様子を描いたものである。 本丸内部には、屋敷や蔵などの各建物が複雑に並んでおり、池や庭園も造られていたことが確認できる。 赤門を抜けた絵図中央部分に公務の場所、右手奥に藩主やその家族の居所がある。 鹿島城は、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)の混乱の中、藩士が城内に火を放ち、 赤門と大手門を残して主要建物は悉く焼失してしまい、67年という短い歴史を終えた。 (鹿島市・鹿島市教育委員会による「鹿島城赤門 野外博物館」より・絵図、縄張り図も)
【左】鹿島実業高校の南東の道から南へ。
【真ん中&右】空堀と土塁のクランク道を進むと城内児童公園。
【左】城内児童公園(駐車場)の北東付近の路地の先にあった東門跡方面で、
下り坂になっている。
【真ん中】東門側から上がった正面の石段。
【右】真ん中の写真の右側の空堀の道。真ん中の写真とで、少しパノラマっぽく。
【左】ただの公園だけに、車をとめてもいいのかな?って感じ…。
【真ん中】東門側から上がった正面の石段から公園側。
【右】真ん中の写真の左側で、左へ向かうと旭ヶ岡公園・東側入口。
土塁上は、何かの跡かな?
【左】城内児童公園(駐車場)の北西側。
写真左が城内児童公園で、右が土塁と空堀の道。
【真ん中】左の写真の正面左側の石垣。案内板によると櫓台だった?
【右】左の写真の右側の石垣。
【左】上の写真の石段を上がり、左折れにある石垣♪ 左側の石垣=真ん中の写真、右の石垣=右の写真。