埼玉県 松山城 |
■松山城=見学自由 駐車場=無料駐車場(吉見百穴と兼用) (2011.9.25現在) (写真)本丸と二の丸の空堀。 |
住所=比企郡吉見町南吉見 この時は、吉見百穴の西側の国道407号と 県道27号との松本町信号で、県道27号を南東へ進む。 市野川を渡って左折、その後の分岐で、右斜めへ。 右側の岩室観音堂を過ぎて、吉見百穴の案内に従って駐車場へ。 |
松山城 | ||
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松山城の歴史は古く、古代に遡るとさえ言われるが、
一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の
上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)頃の上田上野介築城説などがあるが、
松山城の築城は、山内上杉氏・扇谷上杉氏による関東の
動乱を背景とした15世紀後半と言う考え方が有力である。
松山城が中世史上に登場してくるのは大永4年(1524)1月以降であり、
室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏の
対立から、関東制覇を進める後北条氏が進出する時期と言える。
この中にあって、関東各地は一気に戦乱の渦中に巻き込まれるが、
松山城もその例外でなく、常に戦略の最前線として、後北条氏・
甲斐武田氏と岩槻太田氏・越後上杉氏との間で、幾多の合戦が
繰り広げられた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略が行われた際には、
前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した。
徳川家康の関東入国の後は、松平家広の居城となったが、
後を継いだ弟・忠頼が、慶長6年(1601)浜松城に転封されたのに
ともない廃城となった。
松山城は、市野川が形成した広大な低地に突き出た 丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が 行われた北武蔵の地方屈指の平山城である。 この立地は、扇谷上杉の家臣から、後に後北条の 勢力下に加わった上田氏の支配域の東端と見る事ができる。 上田氏の比企地方における本拠は、比企西部の小川・東秩父 地域であり、東秩父村の安戸城及び菩提寺である 清蓮寺を西端とし、中城・腰越城・青山城・青鳥城など を経由し、松山城を東端とする領域を支配していたことで 知られる。 松山城の縄張は、市野川に突き出た部分から本丸(本曲輪)、 二の丸(二の曲輪)、春日丸(三の曲輪)、 三の丸(曲輪4)が、南西から北東に向かって一直線に並ぶ連郭式で、 その両側に多くの曲輪や平場をもっている。 また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。 (吉見町・埼玉県、他の案内板より・絵図も) |
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吉見百穴 | 駐車場と遠景 | 市野川 |
(左)古墳時代の後期、墓穴として作られたもので、穴がいっぱい(@@)
こういうのは、苦手なので見学せず(^^;) (真ん中)吉見百穴と松山城跡の見学の兼用駐車場。 写真は、駐車場から遠景(岩室観音方面)。 (右)すぐそば。 |
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岩室観音&竪堀(北側) | ||
岩をうがって観音像を祀ったところから岩室観音という。
龍性院の境外仏堂である。この観音のはじまりは、
弘仁年中(810〜824)といわれているが、確かな記録は
残っていない。松山城主が代々信仰し護持していたが、
天正18年(1590)松山城の攻防戦の際に兵火にあって、
当時のお堂は焼失してしまった。現在のお堂は、江戸時代の
寛文年間(1661〜1673)に龍性院第三世堯音が近郷近在の
信者の助力を得て再建したものである。お堂の造りは、懸造り
様式で、江戸時代の物としては、珍しいものである。
また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所、弘法大師巡錫
(じゅんしゃく)の霊地に建てられた寺々の本尊を模したもので、
八十八体の仏像が祀ってある。また、
この石仏を拝めば、いながらにして四国八十八か所を巡拝したのと同じ功徳があるとされている。
(吉見町・埼玉県の案内板より)
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登り口(西側) | 登って本丸へ… | 笹曲輪 |
(左)無難にこちらから(笑) (真ん中)道中、急坂+染みだした水でぬかるみ、 大変だった…(^^;) (右)本丸から。 | ||
本丸(本曲輪) | ||
本曲輪(本丸)は東西45m、南北45mほどの曲輪で、 旧状は神社地で社殿等の基礎が残存している。 発掘調査によって土塁が確認されているほか、 東北部に突出して櫓台が設けられている。 二の曲輪(二の丸)との境を画するコの字形の 空堀は、本城最大の空堀で、幅15〜20m、深さ10m程の 規模がある。また折の多用や堀底の高低差が認められる。 (標柱より) (左)神社の名残がいまだに…。 (真ん中)物見櫓跡側から見渡して。 (右)本丸からの景色。 | ||
物見櫓跡 | ||
(左&真ん中)本丸北東側の小高い土塁で、 大きな松山城址碑が立つ。 (右)二の丸側から空堀を挟んで。 | ||
本丸(本曲輪)と二の丸(二の曲輪)との空堀 | ||
(左)二の丸側から本丸方面。 丁度、白い木に沿って、本丸の 土塁が斜めになっている感じで、 土塁周りに空堀が囲んだ状態。 (右)本丸側から二の丸方面を。 草が茂りすぎて、良さが半減…。 |
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二の丸(二の曲輪) | ||
二の曲輪(二の丸)は、本曲輪(本丸)の櫓台を包み込むように、
コの字形を示している。また折が多用されており、凸凹が多い
複雑な形を示している。曲輪の最大幅は東西60m、南北64mで、
本曲輪(本丸)より1mほど低く築かれている。
曲輪内は平坦地であるが、東北の肩部には1mほどの小高い
盛り上がりが認められる。
二の曲輪(二の丸)を取り巻く空堀内に土橋上の遺構が認められ、
現在この部分は、三の曲輪(春日丸)からの通路となっている。
(標柱より)
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