トロとまったり・tripのページ(敏満寺城)

滋賀県 敏満寺城

しがけん びんまんじじょう

■敏満寺城
■名神高速道路 多賀SA 上り、下り 

2008/5/3(上り) ・ 2008/8/9(下り)

住所=犬上郡多賀町
名神高速道路 多賀SAの上りと下り。 

敏満寺城(多賀SA 上り)

この多賀SAのある敏満寺上陵から胡宮神社の鎮座する青龍山にかけては、かつて大伽藍を配していた敏満寺跡である。 敏満寺は、9世紀末から10世紀初頭頃に、伊吹山寺の開基に携わった三修上人の弟子・敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると考えられている。 以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け、隆盛していった。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、40余りの塔堂が立ち並んでいた事が書かれている。 室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏と度々対立するようになる。 応仁の乱以降は、山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点となっていった。 そして戦国時代、永禄5年(1562)に浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したため、長政に攻められ、当時120以上あったという坊舎は殆ど炎上焼失してしまった。 さらに、元亀3年(1572)には、織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の一途をたどっていったのである。 慶長年間(17世紀初頭)には、残った礎石も彦根城普請のため、運び去られた。 造園部一帯は、昭和61年5月〜昭和62年3月まで発掘調査が行われ、調査の結果、15世紀末から16世紀末にかけての遺跡であり、 高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸などの跡及び土器類も出土している。(案内板より)

説明板左側の曲輪

多賀SAの上りの遺構。建物の横にひっそりと公園化して残っていた(^^)説明板もあって嬉しい。
【右】土塁。

【左&右】こんなふうに大きな空堀が!そこから説明板右側の曲輪方面へ行くと、素敵な櫓台と長い土塁が残っていた。

【左】右上の写真の右側を。
【真ん中】ここからの景色。
【右】説明板左側の曲輪の上方。

説明板右側の曲輪

【左】説明板左側の曲輪から右側の曲輪へ。
【真ん中】左の写真を振り返って。
【右】右側の曲輪。

【左&右】説明板右側の曲輪の櫓台。

【左】右上の写真の奥側から。
【真ん中】櫓台奥の門跡で、周りには土塁が残っていた♪
【右】1番上で紹介した写真と同じ。

【左】説明板右側の曲輪の土塁。
【右】敏満寺史跡碑。

【左】土塁。
【真ん中】多賀SA下り方面。
【右】少し離れて立つ敏満寺址碑。

敏満寺城(上り) 2008.5.3記

名神高速道路 多賀SAって、何度も利用していたのに、ここが城跡だなんて思いもしなかった。 しかも、上りの利用って、料金事情で夜が多かったから、今回は、ここ目当てで明るいうちに(^^) 公園化しているけど、縄張り図もあって、とても分かりやすい。 空堀や土塁が、見ることができて、なかなか良かった(^^) 他にも、歴史の人物の説明板があったり、歴史の香りを漂わせてくれる。

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