しがけん よこやまじょう
■横山城
■石田山公園=入園自由
駐車場=無料駐車場
2007/11/24現在
住所=長浜市石田町
(近いのは、北陸自動車道 長浜I.C〜)
この時は、八幡町東交差点で、国道8号から県道509号へ入り、
県道243号との七条町西交差点を過ぎ、次の243号との道を過ぎて少しすると、
左に日吉神社の碑と横山城址、石田山公園入口の案内板がある。
そこから横山城跡へ行けるけど、駐車場が無いので、
その先のなだらかな坂道を進んで行くと、左側に石田山公園の駐車場がある。
スピードが出ていると、入りづらいので注意かも。
横山城は、長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵(一名臥竜山)の最高所(標高312m)を中心に、 三方の尾根にY字状に遺構が配置されている。その主な施設は、40ヶ所以上の曲輪からなり、 いたるところに土塁・堀切・竪堀などの防御施設が設けられており、その機能は堅固で、 典型的な戦闘用の山城であったといえよう。この城は、当初京極氏の支城として築かれたといわれ、 その後、六角氏と浅井氏との対立激化に伴い、それぞれの前進基地として争奪が行われ、 浅井氏の勢力が拡大したことにより、浅井氏の南進基地として役割を果たした。 この城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の姉川合戦(別名=野村合戦)と、 それ以降の織田氏・浅井氏の攻防においてである。 ここ江北の地(湖北地方)は、古くから北国や東国から京都に通じる交通の要衝の地にあたり、 全国平定を目指す信長にとっては、そのおさえとして姻戚関係を結んでいた浅井氏の離反は大きな脅威であった。 また、前方に延暦寺・石山本願寺、背後に武田勢、南に長嶋の一向一揆、さらに北には浅井氏と手を結んでいた朝倉勢と、 信長・秀吉主従にとって、この時期は多難な状況にあった。 姉川合戦により浅井氏から奪った横山城を預かった秀吉は、その後、何度かの浅井氏の攻撃にもかかわらず、 浅井氏滅亡の天正元年(1573)までの約3年間守り通し、浅井・朝倉勢を牽制することにより、信長の背後を守った。 信長自身も本願寺攻め・小谷攻めに際して、何度も本拠地として利用するなど重要な役割を果たしている。 また、この城は秀吉にとって、その後の江北を領有する直接の足がかりとして、さらに全国平定の基礎を築いた城としても、 長浜城に劣らぬ重要な歴史的価値をもっている。(長浜市の案内板より)
日吉神社には駐車場が無いので、通り過ぎてもう少し走ると、左側に駐車場があったので、そこへとめた。 そこにも登山口があるけど、今回は、日吉神社まで徒歩で戻り、そこから横山城へ向かうことにした(^^)
きつい坂道を登り、ハイキングの気分には全くならず、25分程歩いて、ようやく西側の虎口(右の写真)に到着(^^;)
【左】山頂方面に向かって見た曲輪。
【真ん中】左の写真の曲輪の土塁。2つも説明板が。
【右】その先の二重堀切近くで♪
上で紹介した曲輪のすぐ先の二重堀切。
【左】二重堀切の手前側。
【右】次の堀切から振り返って。
上記(大き目の写真)の左の写真(二重堀切の手前側)。
【左】橋の左側。
【右】橋の右側を。
上記(大き目の写真)の右の写真(二重堀切の奥側)。
【左】前方を向いて左側。
【右】前方を向いて右側を。いつのまにか横山ピクニック道だ…。
【左】次の細長い曲輪は発掘中らしかった。
【真ん中】左の写真の曲輪の土塁。
【右】道沿いには大きな石が見られた。
道としか思えないんだけど、縄張図を見ると多分、曲輪。 そして、虎口を通ると、山頂!そこから、伊吹山が見えた(≧▽≦)
ここは、北城と南城と別れていたようで、本丸が2つあって、その北城の本丸が、山頂のよう。
【パノラマっぽく加工】ここまで大変だったけど、こんなにきれいな伊吹山を見たら、疲れもどこへやら(^^)贅沢にも、2人占め♪