トロとまったり・tripのページ(横山城 その3)

・・・ 街灯散歩 ・・・

島津義弘(敵中突破の剛勇)

鹿児島城主で、薩摩・大隈・日向60万石の大守。 辞世をしたため決死の覚悟で関ヶ原の合戦に臨んだが、西軍の敗戦を知ると敵中突破を敢行し、薩摩まで逃げ延びた。 しかし、途中の鳥頭坂では、甥の島津豊久が家康軍の追撃を食い止めるため戦死している。 島津氏は、秀吉に降伏して以来、三成に相談しつつ身の施し方を決めており、西軍への参加はその思いに報いるためであった。(案内板より)

宇喜田秀家(もう1人の西軍首脳)

備前・美作を統一して城下町岡山を建設した宇喜田直家の嫡子。 早くから秀吉の毛利攻めに協力し、その後も秀吉の天下統一戦に参加した。 秀吉晩年には五大老として、政権重鎮の1人であり、秀吉没後は前田利家とともに反家康の中心人物であった。 関ヶ原合戦では、三成に並ぶ西軍首脳と目された。 戦後は、島津義弘を頼って薩摩に逃れた後、八丈島に流され、半世紀余りに及ぶ流人生活のまま没した。(案内板より)

安国寺恵慶(毛利家の外交僧)

安芸に生まれた安国寺の住持となったが、備中高松城水攻めの際、毛利氏と毛利氏と秀吉の講和を成立させたことは有名。 関ヶ原合戦に際して、三成は恵慶を佐和山城に招き、協力を求め、結果、毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。 合戦当日は、南宮山の麓に陣したが、毛利家中で家康に近い吉川広家の軍に牽制され、一歩も動けなかった。 戦後、京都で斬首された。(案内板より)

羽柴秀吉(出世城横山城主)

幼名を日吉、その後、木下藤吉郎を名乗った。 姉川の合戦で手柄をあげ、信長から当町の「横山ピクニック道」の頂上の横山城の守りを命じられた。 小谷城攻めでも大手柄をあげ、浅井氏の旧領を与えられ、小谷城を移して当時の今浜を長浜と改め、城下町を開いた。 鷹狩に来た秀吉が三成と出会った「三椀の茶」で有名な観音寺は、この横山の向こう側の麓にある。 秀吉は、この横山城から長浜城主へ、その後、目覚しい速さで天下を統一し、関白にまでなった。 その第一歩となった「横山城」は、誰言うともなく出世城と呼ばれている。(案内板より)

長束正家(同僚の行政官)

栗田郡長束村(草津市)の出身で、丹羽長秀・長重の家臣であったが、経済通を買われ、秀吉側近となった。五奉行の1人で水口城主。 秀吉死後、一時家康に近付いたが、豊臣家のため筋を通そうとした三成の心に打たれ、関ヶ原では行動をともにしている。 合戦後は、居城がある水口に戻ったが、東軍の攻撃を支えきれず、北走し、蒲生郡中之郷(日野町)で、進退極まり自刃した。(案内板より)

島左近(三成の右腕)

もとは筒井順慶の家臣で、勇将の誉れ高かったが、筒井家滅亡とともに近江の国、高宮に隠棲していた。 三成は、秀吉から水口城4万石に封じられた時、島左近の元に日参し、自分の武の足らざるを補佐願いたいと、誠意を込め懇願し、1万5千石の高禄で召し抱えた。 秀吉は、「島左近なれば1万5千石は高くはないが、自分の半分近くの禄をたった1人に与えるとは、三成の器量も大したものだ。」 と、感心した。左近は、三成をよく助け、三成の期待通り軍事に采配を振るったが、関ヶ原の戦いで討ち死にした。(案内板より)

石田正澄(三成の兄)

三成と同じくはじめ秀吉に仕え、近江の中で1万5千石の領地を持った。 天正16年(1588)、三成に代わって、堺の町奉行に任ぜられている。 関ヶ原合戦の時には、父・正継とともに佐和山城に籠城、防戦2日にして敵軍が侵入、天守閣に火を放って自刃した。 落城が時間の問題となった時、自身の死と引き替えに、城内の老人・婦女子の無事を図ろうとしたが、敵軍の不手際で、果たせなかった。(案内板より)

小西行長(キリシタン大名)

堺の豪商小西隆佐の次男、幼少弥九郎と称した。 堺商人の中で秀吉に最も重く用いられ、後に秀吉側近の武将に引き立てられた。 秀吉の紀州攻めでは、水軍を率いて功績を立て、九州平定後、肥後の大名になった。 朝鮮の役では、加藤清正と並んで先陣の大将を承るが、明の使者と和議を結ぶことに、石田三成らと努力した。 このことから、加藤清正や福島正則らの「武断派」と対立した。 関ヶ原の戦いでは、石田三成とともに東軍と激戦を戦わしたが、敗れて京都六条川原で処刑された。(案内板より)

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