しまねけん がっさんとだじょう
■月山富田城=見学自由
駐車場=無料(城安寺の反対側)
※一応、大手門の下の方には、駐車スペースあり。
2005/8/13現在
住所=安来市広瀬町富田
山陰自動車道安来I.C〜広瀬町方面へ県道45号を走ると左に道の駅広瀬富田城。
道の駅広瀬富田城の手前の道を左折(新宮橋の反対側)、右に行くと城安寺。
道の駅広瀬富田城を過ぎて、左にある巌倉寺の赤門の隣に城祉碑あり。
巌倉寺の赤門の隣にひっそりとある富田城祉碑。案内図もある。
富田城は能義郡広瀬町富田に位置し、飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた複郭式の山城である。 城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口がある。 周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠く事の出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されている。 伝承によれば、保元、平治の頃平氏の武将によって築城されたと云われる。 富田城の始まりは12世紀の後半、源頼朝が出雲の守護として、佐々木義清を任命した事とされる。 それ以後塩冶、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替している。 が、最も栄耀栄華を極めたのは陰陽11ヶ国を領有した尼子の時期である。 しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半もの間富田城に立て籠もっていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまう。 1600年関ヶ原の戦いで、徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が富田城に入った。 しかし山奥にある富田が出雲支配に不便な事から、慶長16年(1611)堀尾氏は城を現在の松江城に移した。 廃城になるまでの427年に及ぶ間軍政上の一大拠点であった。(案内板より)
【左】川を渡って、道の駅へ。
【真ん中】道の駅とは思えないような雰囲気。
【右】道の駅の横にある資料館。
富田城跡は中世山城址を代表する遺産として昭和9年に国史跡指定を受けた重要な文化財。 東西約1,200m、南北約1,200mの範囲に縄張された総面積140万uの日本でも最大級の規模を持つ城跡。 この地形模型は、富田城跡が自然の幾重にも重なる山や谷を利用して、南に流れる富田川を堀として尾根や山頂に主要な曲輪を置いて、 城を構えた様子を分かり易く表現したもの。(案内板より)
富田城は保元平治の頃、平氏によって築城され、その全盛時代は尼子経久の頃であった。 ここは、大手門(表門)跡で、上方の(なり地)が山中御殿跡である。 周りの石垣は昔から大石垣と言われ、門の左右の石垣の上には櫓があって、傾斜した円形の広場(人桝)を見下ろしていた。 南側の塩谷口から上る方面にも入口があり、近年発掘されてその跡が確認されている。(案内板より)
【右】大手門跡を歩いていると、目の前に少し石垣が見える。 写真では草でわかりにくいんだけど…。
【左】菅谷口から少し上った所から、山中御殿を見渡して。
月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口と三つの主要通路の最終地点ともなっており、 最後の砦となる三ノ丸・二ノ丸・本丸へ通じる要の曲輪として造られた。まさに山中御殿は富田城の心臓部と言えるであろう。 周囲に高さ5m程の石垣や、門・櫓・塀等を厳重に巡らせる事により、敵の侵入を防いでいた。 整備工事は昭和49〜57年度、平成5〜8年度で行った。 昭和55〜56年の発掘調査により、16世紀後半頃の備前、伊万里、志野焼きの陶磁器類をはじめ、 中国製陶磁、宋銭、装飾金具、硯等が出土しており、 掘立柱建物跡2棟溜桝状石積施設2、溝状遺構、方形壙等の遺構が検出された。(案内板より・絵図も)
【左】塩谷口。結構、段差の大きい石段。本丸からの帰りに通った。
【右】菅谷口の左側にある櫓跡。本丸へはこっちから行った。なかなか大変だった(^^;)
【左】両端の石垣を入れた。
【真ん中】月山軍用道と書かれている。
【右】菅谷口の右側の石垣