この2枚は同じ場所から左、右と写したもの♪こういう道は歩くだけでも気持ちがいいな(^^)
【左】凄い力強さを感じる。
【右】この時は、通行止め。崩落の可能性があるからこそ凄そう〜(^^)
昭和57年、59年の2ヵ年にわたり発掘調査を実施した結果、江戸期の絵図どおり礎石や地覆石、雨落溝が検出された。 「松江城縄張図」等の資料によると3間×7間の二階建、櫓門形式の造りで二階に縦格子の狭間があって平時は監視に、非常時には鉄砲や弓矢で防衛を固める事が出来た。 周囲の石垣は搦手と呼ばれるように北へ直角に折れ曲がっている。 これは敵の勢力をこの門付近で停滞させる効果をもつものである。(松江市教育委員会の案内板より・絵図も)
【左&真ん中】北惣門橋方面。【右】逆から。
【左】通用口跡。【真ん中】正門跡。【右】ここの石垣の矢穴を。
江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路であったが、 明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変わり、長らく「眼鏡橋」と呼ばれていた。 そこで、史跡に相応しい江戸時代の木橋とするため橋下の発掘調査の結果や絵図や文献史料を検討して長さ18.54m(9間4尺5寸)、 幅3.82m(2間)の規模で平成6年11月に復元完成した。(案内板より・絵図も)
現在の松江城がある地を亀田山(標高28m)といい、さらに宇賀山・赤山と続いていたが、築城の際に宇賀山を掘削し、 ここに内堀と武家屋敷街(現在の塩見縄手)をつくった。 この橋名は宇賀山にちなんでつけられた。(案内板より・絵図も)
この二之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあった所である。 米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。 城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。 延宝7年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とその子民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。 さらに18世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに5棟も新造されたが、この内3棟は天保年間に建てられたものである。 やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治8年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。 その後、一帯は運動場となり明治33年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行われたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。 松江市では、昭和47年度から3次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であった事が確認された。 (案内板より・絵図も)
石垣を見上げて。屏風折の石垣。ここから見ると厳しいな。祈祷櫓の下の石垣も凄いらしい。見ればよかった…。
松江城 2005.8.13記
とうとう現存天守閣の1つ、松江城にやって来た!こんなに復元櫓があるのは嬉しい♪ しかも石垣がいい感じで凄く満足できる。 ところで、ギリギリ井戸跡という不思議な名前の井戸があるんだけど、ちょっと怖〜い由来があるので写さなかった(^^;) ちなみに、「ギリギリ=頭のツムジ」。方言は面白い。どうしてツムジがギリギリなのかな(^^;) そうそう、天守閣の中は蒸し暑く、望楼式の風通しの良さに感動〜。風が一番通る所に人がいっぱい集まってた。 景色もきれいだし、約200点の展示物も見ごたえあった! 室内そのものも、寄木柱(白蟻にやられてるっぽい)や桐の階段など、全体的に凄かった(^^) そういえば、二ノ丸番所跡って、トイレの横にあるんだけど、(しかも女子トイレ側)なんだか落ち着いて出来なかった(^^;) 気にする必要も無いんだけど、微妙な気持ちだった。