【下田城 その1】

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静岡県 下田城 しずおかけん しもだじょう
■下田城(別名=鵜島城)=見学自由
■下田公園
駐車場=無料駐車場      (2011.2.27現在)
(写真)主郭南側の畝堀。
住所=下田市
この時は、東伊豆道路・国道135号を西へ走り、 道の駅 開国下田みなとを過ぎて、国道414、136号との 中島橋信号を左折して南下。 突き当たり(確か、了仙寺バス停の所)を左折。 下田海中水族館への右折する所を直進。 下田公園の小さな看板があるが、直進すると右に駐車場がある。

下田城
天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする 北条氏の対立が表面してきた天正16年(1588)、陸の 防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の 防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介 康英を城将に大改築が行われた。 城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称 天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に 守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長700mを超える 空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。 天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や 妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは 援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が 整えられていった。天正18年3月、清水湊(江尻)に集結した 豊臣方水軍は、長宗我部元親や脇坂安治、安国寺恵瓊が率いる1万人を超える 大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。 圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、 50日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を 受け入れ、城を出た。城将清水上野介康英は、河津三養院に身を寄せた。 (下田市教育委員会の案内板より) (右)案内板より下田城復元模型の画像を。
駐車場(北側) 城址碑&下田公園碑 開国広場
(左)上から見下ろして。結構とめられるので安心。 (真ん中)登り口(駐車場の隅)にある。 (右)広い公園。
開国記念碑 下田市街を見つつ… 分岐点
(左)「日米修好の基礎は 下田に於て築かれた」。 (真ん中)気持ちがいい♪ (右)馬場ケ崎展望台等の分岐点。
馬場ケ崎展望台
(左上)分岐点から低い位置にある馬場ケ崎展望台へ。 写真は振り返って。
(上真ん中)展望台までは、細長い。
(右上)展望台。
(左)パノラマっぽく加工。右は犬走島。
主郭下の北東側の曲輪? 伝天守台と城址碑 鵜島城址碑
(左)この辺りは曲輪跡? (真ん中)正面の土塁が主郭・伝天守台で、 手前に木と同化しそうな城址碑がある(笑)
主郭・伝天守台跡
(左&真ん中)小高い土塁の石段を上がって…。 (右)上がった付近は、こじんまり。でも、細長く曲輪は続く。
(左)西側から入口方面を。 (真ん中)主郭南側の空堀を見下ろして。 (右)主郭南側の空堀側から見上げて。
主郭の西側
(左)主郭は、細長くのびる。 (真ん中)西側の石段を下りた所。 (右)真ん中の写真の所からの眺め。
主郭下の東側方面 主郭南東側の堀切
(左)主郭の東側方面の下には、低い所が。 (真ん中)右側が主郭の土塁。主郭が高い! (右)反対側から。

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