静岡県 駿府城 |
■駿府城=見学自由 ■東御門・巽櫓=大人 200円(紅葉山庭園は別) 開館時間=9時〜16時半 休館日=月曜(祝日、休日の場合翌日・年末年始) 駐車場=近隣有料駐車場 (2004.10.10現在) |
住所=静岡市葵区追手町5番1号 東名高速道路 静岡I.Cから県道84号を静岡市街方面へ進み、 国道1号へ右折。が、静岡駅付近が渋滞で常盤町2丁目交差点を 国道362号へ左折。本通3交差点を県道208号へ右折。 県道27号に出るが中町交差点をそのまま直進し、堀をぐる〜っと廻って 西草深町交差点を県道354号へ右折。次に2つ目?の信号を城内小や 体育館方面へ右折。T字で左折。市民文化会館の駐車場を利用した。 30分間100円だった。 |
駿府城 | |
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約650年前の室町時代、今川範国(のりくに)が駿河守護職に任じられて以降、 駿河国は今川氏によって治められた。9代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は 7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らした。 永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、 永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われた。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には 駿府城の築城を開始し浜松城から移った。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により 関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になった。 その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ 江戸幕府を開いた。 慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として 三度駿府に入った。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な 新城として生まれ変わった。城には外堀、中堀、内堀の三重の堀が廻り、堀に囲まれた郭を内側から 「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の平城である。 (中央の本丸の北西角には五層七階の天守閣があったが、寛永12年(1635) に焼失している。) 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が 助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められた。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が 造られた。 (静岡市教育委員会の案内板より) | |
東御門と巽櫓 | |
■東御門…
東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口。
この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、
櫓門、南及び西の多聞櫓で構成される枡形門。
枡形門は要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等を持つ堅固な守りの実践的な
門で、戦国時代の面影を残す。
東御門の前が安藤帯刀(たてわき)の屋敷であった事から、
「帯刀前御門」、又、台所奉行であった松下浄慶にちなんで
「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣達の出入口として利用された。
慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守閣、
本丸御殿、巽櫓等と共に焼失し、寛永15年に再建された。
今回の復元建物は、この寛永年間再建時の東御門・巽櫓の
姿を目指し、日本の伝統的な木造工法によって復元したもの。
■巽櫓… 巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、 十二支で表わした巽(辰巳)の方角に位置する事から 「巽櫓」と呼ばれた。 駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」もあった。 櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、 武器の保管などの役目をもっていた。 焼失後、寛永15年に再建された巽櫓は幕末近くの安政大地震によって 全壊してしまったとも考えられている。全国の城の櫓建築でも 例の少ないL字型の平面を持ち、駿府城の櫓の中では最も高く、 ”勝れた”櫓であったと言われている。 |
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