【山中城 その1】

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静岡県 山中城 しずおかけん   やまなかじょう
■山中城
■見学自由
駐車場=無料駐車場
■岱崎出丸側にあるトイレ横のお店で、パンフが貰えた。
                          (2005.11.26現在)

←秋の夕方の障子堀。凄く素敵でしょ♪春は緑色の障子堀に…。
住所=三島市山中新田
箱根新道から国道1号もしくは、小田原市方面の国道1号から、宮下交差点を左へ。 箱根峠を進んで、右に山中城跡。信号を過ぎたすぐ右なので、 行き過ぎに注意。左にもあるが、右の方が駐車場は広い。 左も山中城の遺構があるが、右の方が規模が大きい。 ここを過ぎて走って行くと、また大きな駐車場が左にあるが、 最初の方に停める方が絶対近い。ちなみに、この1号の夜は霧が多い 道で、しかも時間が遅くなればなるほど、走り屋さんが増えてくる。 城跡を夜見に行く人はいないと思うけど、一応気を付けよう…。

国指定史 山中城跡
史跡山中城は、小田原に本城を置いた北条氏が、 永禄年間(1558〜1570)小田原防備の為に築城したと伝えられる 中世最末期の山城である。 箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた 山城で、北条氏にとって西方防備の拠点として極めて重要視されていた。 やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、 急ぎ西の丸や出丸などの増築が始まり、翌年天正18年(1590)3月、全国統一を目指す 豊臣軍に包囲され、約17倍の人数に僅か半日で落城したと伝えられている。 三の丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の守将松田康長・副将間宮康俊 、豊臣軍の一柳直末等両軍の武将の墓がある。 三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、 昭和48年度よりすべての曲輪の前面発掘にふみきり、 その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。 その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、 山城の規模・構造が明らかになった。 特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、 架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を 巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空掘・水堀・用水地・ 井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだ事や、 石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、 学術的にも貴重な資料を提供している。 出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の 建築用材、日常生活用具等がある。 (三島市教育委員会の案内板より)
駐車場 案内板 (写真をクリック→拡大)
車で出る時も押しボタンを押した方が安全だし、変わるのが早いよ(^^) 見所満載♪
三の丸堀
三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御の 為の堀。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、 畝(うね)を掘り残したりと自然地形を加工していたのに対し、 三の丸堀は自然の谷を利用して中央に立ての畝を設けて二重堀としている。 中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を 処理し、西側の堀は空掘として活用していたもの。 この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
元西櫓下の堀
城の内部への敵の侵入を防ぐ為、人工的に土地を深く掘り下げた物が堀。 掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平にならしたり土塁に積むのに用いられる。 山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に 深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないという事は大きな特色。 ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
西ノ丸畝堀
西ノ丸内部への敵の侵入を防ぐ為、完全に曲輪の周囲を堀によって取り巻いている。 山中城では水の無い堀、水のある堀、柔らかい泥土のある堀と分けられる。 この堀の中は、5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2m、更に 西ノ丸の曲輪へ入るには9mちかくよじ登らなければならない。遺構を保護する為、 現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時は滑りやすいローム層が露出していた。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
土橋
土橋は城(曲輪)の虎口(入口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って 城への出入りの通路として作られる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って 正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い登り坂の 通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。 この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めて置く為の堤防でもある。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
障子堀
後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」 という独特の堀が掘られている。 西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪に向かって 畝を出し、障子の桟の様に区画されている。 また、中央の区画には水が湧き出し、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みに なっている。この様に水堀と用水地を兼ねた堀が山城に作られる事は非常に珍しく、 後北条氏の城の中でも特異な構造。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
後北条氏の角馬出(かくうまだし)
戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と1つの広場が組み合わされたものを 特に「馬出」と呼んでいる。 馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、 馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称 「三日月堀」である。これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。 西ノ丸から障子堀を越えて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、 それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には 堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。 この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より・絵図も) (写真=角馬出から西ノ丸)
西櫓堀
堀内には、ほぼ9m間隔に8本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。 畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は 約0.6mで丸みを帯びている。 畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4m、長さは中央で 9.4m、堀底から西櫓までの高さは9mもある。 現在は植栽されているが、400年前は滑りやすいローム層が露出し樹木は全く無かったので、 もし人間が落ちれば脱出する事は不可能だったと推定できる。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
西櫓の架橋
西櫓の曲輪を囲む約82mの西櫓堀は、ほぼ9m間隔に 作られた8本の畝によって、9区画に区切られている。 第9区画に隣接する一段高い平坦面から4本の柱穴が検出され、 この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より・絵図も)
三島市眺望地点 山中城跡からの景色
(左)愛鷹連山。これは結構見える♪
(右)富士山が見えるなら、この方向。

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