【山中城 その3】

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箱根旧街道 腰巻地区の石畳復元・整備
箱根旧街道は、慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、 江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と 三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間である。 この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを 正確にする為の一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、 やがてその道に竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に 改修された。 三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」 約350mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成6年度 (1994)に復元・整備した。
発掘調査の結果、石畳は幅2間(約3.6m)を 基本とし、道の両側の縁石は比較的大き目の石がほぼ直線的に 並ぶように配置されていた。基礎は作らずにローム層の土の上に敷き並べたもので、 石材はこの付近で採石したと思われる、偏平に剥離する安山岩を用いていた。 調査の成果を基に、管理の為の下部基礎を設け、石畳がよく残っていた 所約60mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の 少なかった所や全くなかった所約290mの間は、江戸時代の石に加え 神奈川県府川町で採石した安山岩を補填した。 また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の 「斜め排水路」を二ヶ所作った。 (三島市教育委員会の案内板より)
石畳から階段を上がって… 出丸御馬場跡手前の広場(出丸御馬場跡側&出丸御馬場跡方面)
色合いが素敵♪ 曲輪の名前は無いけど、大きな広場。 ピクニックをしている親子もいた。
出丸御馬場跡
(左上)東屋方面。(上真ん中)東屋の右側。 (右上)低い所から見て。
山中城の出丸は、通称岱崎出丸と呼ばれ、標高547〜557m、面積2万400uに及ぶ 広大な曲輪であり、天正17年(1588)、秀吉の小田原征伐に備え、 急ぎ増築された曲輪である。ここは古くから御馬場跡と伝承され、 土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀に続き、南側は急峻な谷で囲まれた 岱崎出丸最大の曲輪である。曲輪内は、本丸と同様式の二段構築で作られている。 建物跡については確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡す事が出来、 出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
(左下)土塁。 (下真ん中)城址碑方面。 (右下)出丸御馬場跡の山中城址碑。
出丸御馬場堀(馬場堀から&出丸御馬場跡の土塁から見た馬場堀)
堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと 考えられる。畝の高さは、堀底から約2m、頂部の幅0.6m、馬の背のように丸みを帯び、 堀を遮るように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を台形に掘り残して造られた ものである。畝の傾斜度は50度〜60度の急峻で、平均した畝底の幅は 約2m、堀底から曲輪までの高さは、平均9mにも及ぶ。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
構築途中の曲輪跡
東側は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより 小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。 遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながら ここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。 しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。 ここの整備に当たっては、当時の緩やかな西側への下り傾斜を再現し、 構築途中の様子が偲ばれるよう配慮した。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
すり鉢曲輪
山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。 そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とは全く異なり、 中央部を凹(くぼ)ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で 土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。 上方から見た様子が、すり鉢によく似ているところから通称 「すり鉢ぐるわ」と呼んでいる。この曲輪への虎口(入口)は 南に作られているが、更に東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が、 作られており、防備の為の「武者だまり」と推定されている。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
(右)飼い主さんが呼んでも、向かってくる犬。 この後、後ろからドーンとぶつかられてしまう…!
すり鉢曲輪の虎口 構築途中の曲輪跡の下の方
ここから上の犬がシュッて出てくる んじゃないかと思ってドキドキした。 いっぱい大根が干してあった。
すり鉢曲輪見張台
出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、 土塁と兼用させたものである。すり鉢曲輪南側の樹木を低くする事により、 三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。 見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、 試掘の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは8m以上もあり、 武具を着けた敵がよじ登る事は、不可能な状況を呈していた。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)  (右)すり鉢曲輪見張台に上がって見る
岱崎出丸
この地は、標高547m〜557m、面積2万400uに及ぶ広い曲輪である。 地名の岱崎をとり、岱崎城と呼ばれる事もある。 天正17年(1589)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、 この出丸の増築を始めたが、短期間の為完成できず、中途で放棄した様子が、 発掘の結果諸所にあらわれたのも興味深い事である。 この出丸を守ったのは、副将間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘を繰り広げ 全員が討死したと伝えられている。その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして 建てられており、訪れる人の涙をさそっている。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
御馬場北堀
御馬場の西側に構築された深い堀は、南は米光川上流に開いているが、 北の部分はここの帯曲輪で堀留めとなっている。 この西堀と対を成すかのように、堀の上幅8mの北堀が 発掘の結果検出された。 この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹を巡る堀と 直交するのではないかと推定される。 北堀の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから 検討する事になっており、 今回の整備では堀の位置だけ示すにとどめた。いずれにしろ 御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする 戦略上の意図が察知できる堀である。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
岱崎出丸「一の堀」
第九次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を 鉢巻のように巡るのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の 空堀まで続くものである。第九次調査では、指定地内の約150mの間に、 17ヶ所の畝を確認する事ができた。完掘された一の堀の 第3区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角を もってたちあがっている。したがって、堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、 斜距離18〜20m前後の急峻な勾配がつくわけである。 (文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板より)
岱崎出丸「一の堀」の斜面にある山中城跡の文字 北条橋
(左&真ん中)距離は近いわ、大きな字だわで、入りきらない(笑)
(右)少し遠目の駐車場に続く橋。雰囲気があって好き。 でもこの駐車場にはとめて無いけどね(^^;)

■山中城…2005.11.26
前回見る事が出来なかった、道路を挟んだ所にある、岱崎出丸を見にやって来た(^^) 相変わらずきれいな城跡。冬だから少し寂しげな色だけれど、それはそれでいい感じ。 やたらと大根が干してあって、漬物になるのか、それとも切干大根になってしまうのか。 それはさておき、すり鉢曲輪はとても大きく、名前通りだ〜と感心していると、底にいた リードを外した犬が、こっちへ向かってきた!これがまたかなり大きな犬だったので、 少しびびったが、「こっちへ来い!」と飼い主さんが呼ぶので、寸での所で戻って行く犬。 それでも、何度も何度も犬は凄いスピードで近付こうとする。いつか、ぶつかって来るに 違いない!と場所を変えた。が、相方が写真を写している背後からド〜ンとぶつかって 来たそうだ。よだれなのか、鼻が付いたのか、ジーパンがぬれたとぼやいていた(^^;) その後、一の堀の畝堀を見る。やはり深い堀で、山中城だって実感できて嬉しい(^^) ちなみに、入口の売店にはパンフが置いてある。その近くにはトイレもあるので安心だ。

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