【横須賀城 その1】

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静岡県 横須賀城 しずおかけん よこすかじょう
■横須賀城(別名=松尾城)=見学自由
駐車場=無料駐車場      (2009.3.20現在)
住所=掛川市横須賀
この時は、高天神城の後だったので、 県道38号を南下して、大坂信号で県道69号へ右折。 少し走って、西田町信号で北西の県道41号へ。 少し西へ進んで、横須賀城の案内板を右折し北上。

横須賀城
■横須賀城… 戦国時代末期、天正6年から8年(1578〜1580)にかけて、 徳川家康の家臣大須賀康高によって築かれた城であり、 当初は約6km東に存在する武田方の高天神城を攻めるための 軍事拠点として使用された。 天正9年に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて、城は近隣支配の 拠点となった。 城主は築城者大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、 本多氏と続き、天和2年(1682)からは、西尾氏8代が城主となった。 (城主は8家20代)
明治2年(1869)の廃城後は、城に関する土地や建物等が 民間に払い下げられ、横須賀城はその姿を消したが、 昭和56年(1981)5月8日、国の史跡に指定されている。 横須賀城の特徴は、中世城郭と近世城郭の2つの構造を 持っている平山城であること、大手門が2箇所にあること、 宝永地震(1707)までは城内に船着場があったこと、 河原石だけの石垣が見られることなどがあげられる。 (掛川市教育委員会・大須賀町商工会の案内板より)
■横須賀湊と横須賀城… 江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から 深く入り込む入り江があって横須賀城を天然の要害としていた。 入り江には横須賀湊があり、大きな船も寄航し水上交通と 物流の拠点となっていた。また、この入り江と外堀を区切る 形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる 街道となっていた。小笠山を挟んで立地する掛川城が、 陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は 海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要で あったと考えられる。城前のこの入り江は、宝永4年の宝永 大地震による地盤隆起によって干上がり、横須賀城周辺の 様子は一変すると共に湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は 軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。 湊が使えなくなった以後は、西方の太田川河口の福田湊まで 運河が造られて小舟が行き来した。 (大須賀町教育委員会の案内板より)
二の丸&桜
二の丸御殿が建っていて、普段城主が住んでいた所といわれている。 (標柱より)  桜は違う所だけどここで紹介♪
米倉跡 たたき製防火水槽
本丸の裏手にあたり数棟の米倉が建っていた。 (標柱より)
 駐車場からすぐ米倉跡。
(付近に建ち並んでいた米倉用) 当時は、板の蓋があったと考えられ、 蓋用の窪みがある。側面にある菱形 マークは城主西尾氏の火消し紋である。 (標柱より)
西の丸西斜面の石段
この遺構は(遺跡を形づくる当時の構造物)は、 普段城主等が住む二の丸(今は西部幼稚園)方面から 西の丸台地へ上がる時に通る登り口跡である。 西の丸台地を取り囲む帯曲輪の平のへり部分を、幅広く 溝状に掘り下げ、その底に平らな川原石(小笠山礫層中に 含まれる砂岩礫)を据えて造られている。 本物の遺構の石材は地元産の砂岩質の川原石である。 この石は表面がすべすべした石で雨の日などは滑りやすく なるため、復元では石の表面がでこぼこして滑りにくい 木曽石を使用している。その他、遺構としては検出できなかった ものの、絵図などに描かれている塀などについては 当時の姿を想像してもらうため刈り込んだ生垣で表現。 門跡はイヌツゲ、塀跡はサザンカの生垣で表している。 ※本物の遺構は地中に保存している。 (大須賀町教育委員会の案内板より)
(左)復元石段と門跡。西の丸方面。 (真ん中)復元石敷。二の丸方面。 (右)途中、西の丸下の帯曲輪がある。
西の丸
西の丸への復元石段。 西の丸側から。未検出部分が表示。 建物があったという意味の礎石?
西の丸から本丸南下へ。 本丸南下から西の丸への石段。 西の丸から本丸へ。
本丸
(真ん中)本丸跡土杭群。この土杭からは、17世紀から 18世紀初頭にかけての陶磁器類等が出土している。 (標柱より)
天守台
横須賀城の天守は建坪40坪余、 4層の建物と記録されている。ここからは礎石と 礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に 27箇所検出され天守跡と考えられる。 天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と 考えられるスロープがある。建物跡東側には、 砂利敷された平坦面があり、北側には防御の為 土塁があった。天守台の周囲からは天守に使われた 瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が 南側からは尾の部分が出土した。 (大須賀町教育委員会の案内板より)       こじんまり。
本丸(南斜面・中段)
この区域の北側と東側からは、五段目までの石積みが残る 石垣が出土した。北側の石垣部分からは、塀に使われた 瓦が石垣上部から落下した形で出土した。 (大須賀町教育委員会の案内板より)
本丸南側の石垣は、外のお城と違って河原石だから面白い(^^)
本丸(南下)
この区域は、天守台がある本丸の南側斜面と、 その下段部分に当たる。 当時の絵図には、本丸前の高石垣と3箇所の上り 路が描かれている。復元された石垣に使われている 灰青色の玉石は、大井川から採取された石を使っている。 本丸へ上る東西の上り路は、発掘調査で検出されなかったが、 当時の絵図と遺構を検証して位置を決め設置した。 (大須賀町教育委員会の案内板より)

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