ちばけん おおのじょう
■大野城
■第五中学校
■天満天神宮
■浄光寺
駐車場=浄光寺の参拝&幼稚園の無料駐車場
(写真)第五中学校と説明板。
2017/4/16現在
住所=市川市大野町3丁目
武蔵野線市川大野駅の南側の高架をくぐって県道9号を東へ、信号で県道9号を南下。
進んだ先の信号手前左側に浄光寺、右側に浄光寺の第1駐車場がある。
その信号の浄光寺の南側の狭い道を入り、道なりに進むと第五中学校。もう1本先の信号手前を左折した方が道は若干広めで、中学校へ向かうけど、どちらにしても道が狭かった。
天満天神宮は、第五中学校の北側にある。(※上記は場所の説明で、道が狭かったり階段を歩く為、実際は徒歩で向かった場所もあります。)
第五中学校の校門付近に設置されていた説明板より。
この説明板の立つ台地は、昔『城山』と呼ばれていた。 しかも、この台地を中心とした一帯には、御門(みかど…大手門)、殿台、殿内(領主の館)・迎米(米倉)・馬寄場(馬場)・一ノ谷・二ノ谷(外堀)・楯台(守備陣地)・根古屋(従者の居住地)等と、 中世の城跡をしのばせる地名や、空堀の跡・土塁(土を盛った囲い)・或いは抜け穴等の跡が各所に残されていたのである。 しかし、この城跡がいつの時代に、誰によって造られたものか、現在、確証できるものが何もない。 ただ、地域に残る伝承では、関東を征服しようとして、天慶の乱を起こした平将門が、下総国の西南部(市川市周辺)を鎮圧するために築いた城で、 大野一帯は乱の後、将門配下の将兵によって、開墾された土地であるという。 また一説に、大野の地域は日蓮に帰依した、中山の太田乘明(おおたじょうみょう)の所領であり、 大野城は太田一族の居城であったとか、同じく日蓮に帰依した曽谷教信(そやきょうしん)が、法連寺を建て、 この地で歿(ぼっ)したり、さらに一族によって礼林寺(らいりんじ)が建てられたりしているところから、曽谷氏に関係ある城でなかったかとも考えられる。 昭和44年に第五中学校の地域、54年に第五中学校と大柏小学校の一部を発掘調査した結果では、天慶の頃の将門伝説と結びつけることは無理で、中世戦国時代に相当する城跡ではないかといわれている。 昭和56年10月(市川市教育委員会の案内板より・大野地域の旧字名図も)
【左】第五中学校の南西側。桜が凄く咲いていた(^^)
【真ん中】第五中学校の南側の校門。この付近のフェンスに説明板が設置されていた。
【右】北側のグラウンド。
【左】第五中学校の南東側にある階段。
【真ん中】階段を下りて振り返って。結構高さがある。
【右】階段を下りた後、坂を下って…。
【左】第五中学校付近の階段から、第五中学校の斜面を。
【右】第五中学校付近の階段を下りて、北へ進んだ所から第五中学校の遠景を。遺構っぽい雰囲気がいい感じ♪
第五中学校付近の階段を下りて、北へ進んで。
【左】湿地帯は名残なのかな?
【真ん中&右】第五中学校が民家の間にチラリ。