展望室からの景色 | |
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グランドの点々は野球部員。一斉に走り出したところ。 | グランドの上方の朱色の屋根の付近が大手門跡。 |
展望室からの景色 | |
上の写真の左側の景色。 | 右側の山近くに流れているのが御禁止川。 |
大多喜城と城下町の模型 | |
凄く大きな模型!それにしても、4階の室内の様子が写ってしまう…(^^;) | |
塀&丸に立葵の瓦 | 石垣 | |
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城の内部は、それぞれ役割によって区分されたが、その区切りに
いろいろな塀が工夫された。塀は大きく分けて「板塀」「土塀」が
あるが、「板塀」は火災や鉄砲に対して役立たない為、城では「土塀」が
多く作られた。
(案内板より)
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織田信長の作った安土城から後、大名が城作りで最も力を入れたのが石垣。 大多喜城(総南博物館)の石垣は、野面積みと打込ハギの中間の 方法で積まれている。(案内板より) | |
紋 | 大多喜高校 | |
ここにも三つ扇が(^^)凝ってる〜。 | 遺構見学とはいえ、高校に入るのは不思議な気持ちになる(^^) | |
大井戸(大多喜高校駐車場内) | ||
大多喜城内にあった20数個の井戸の1つ。初代城主の本多忠勝の
時に掘らされたと言われ、周囲約17m、深さ20mで、日本で
最も大きな井戸の1つ。当時は、8個の滑車と16個のつるべ桶があり、
水が尽きる事無く湧き出ることから「底知らずの井戸」と呼ばれた。
(案内板より)
←城内からも見える (上の真ん中の写真の右端) |
薬医門(大多喜高校玄関東側) | |
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この門は大多喜城内建造物唯一つの遺構である。本柱が中心より前方にあり、 控柱を付けた薬医門形で、天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門である。 明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿により、功績のあった小高半左衛門に 払い下げられたが、大正15年、曽孫にあたる県立大多喜中学校第1回卒業生 小高達也氏により、同校の校門として寄贈された。 昭和40年代年当初に始まる大多喜高等学校新校舎建築の際に、一旦解体保存されて いたが、同48年、大中第26回卒業生中村茂氏の復元設計により建造されたものである。 (案内板より) | |
大多喜高校から大多喜城 | 御禁止川(おとめがわ) |
■御禁止川… 大多喜城の本丸下を流れるこの川は、城主が江戸時代に魚を獲る事を禁止したので、 御禁止川と呼ばれていた。城主が参勤交代の折には、御禁止川の「むらさき鯉」を、 将軍家に檜のたらいに入れて、生きたまま献上したといわれている。 (大多喜町の案内板より) | |
大手門跡 | 大手門(歓迎門) | 丸に立葵と三つ扇の街灯 |
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■大手門… 大手門は、ここから(←歓迎門から)北西約150mの所に大多喜城の正門として 建立され、築城当時の慶長年間には吊り橋がかかっており、 人工的に持ち上げるようになっていた。また、自然の要害に 更に人工的防御施設を施し、門の両壁は高い土塁と石垣で 固められ、外壁は水成岩が垂直に削り取られていて、 常に水分を含み、いかなる方法をもってしても侵入できない ようになっていた。尚、現在のこの門は、昭和57年5月に新たに 建設され、町民から名称の募集を行い、大手門と命名されたものである。 (大多喜町の案内板より) 大手門跡は、大多喜高校をぐる〜っと回るような道を走ると左にある。 | ||
上南郭公園(南郭) | 四ツ門公園(四ツ門跡) | |
南郭通りにH15年に開設。城郭の一部でその地名から公園の名が付いた。 |
四ツ門(大多喜城から数えて4番目の門)跡に、H14年に公園を開設。 交差点にあるから恥ずかしかった(^^;) 右は車中から。服が反射した…。 |
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■大多喜城…2004.2.28記
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