【佐倉城 その1】

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千葉県 佐倉城  ちばけん  さくらじょう
■佐倉城(別名=鹿島山城)
■佐倉城址公園=見学自由
■国立歴史民俗博物館=420円
駐車場=無料駐車場        (2008.4.5現在)
※このページは、2005.1.9(夕方)、2006.9.10(朝) 2008.4.5(昼&表記)を、使用しています。
住所=佐倉市城内町
(広域では東関東自動車道 佐倉I.C〜国道51号〜県道65号〜国道296号。) この時は千葉市方面からの国道296号を佐倉へ走り、歴博の案内板が 結構出るのでそれに従って走り、歴史民俗博物館の信号を右折。 きれいな道路を進んでいくと広い駐車場。

佐倉城 (真ん中&右の写真をクリック→拡大)
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に 土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代の中頃、千葉氏の一族鹿島幹胤によって 初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。 千葉邦胤もここに本城を移そうとしたが半ばにして果さず、 のちの徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年 (1611)正月から7年間を費やし、元和3年(1618)頃に完成した。
以来、徳川幕府では江戸の守りとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。 延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を 領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の 営所が置かれ城の施設はことごとく壊された。 その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。 (案内板より)
愛宕坂 衛兵所跡(佐倉連隊跡) 入口
入口からの緩やかな坂。 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していた。 (案内板より)
田町門跡
成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、 門の裏手に番所があった。現在の歴博入口は連隊建設の際、 真っすぐ出入りできるよう変更されたものである。 (案内板より・絵図も)
なるほど、だからキチンと整備してあるんだなぁ(^^)
椎木曲輪(侍屋敷)
歴博があるのは椎木曲輪(侍屋敷地区)で、 連隊時代は兵舎があった。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、 外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社があった。 (案内板より・絵図も)
馬出し空濠(パノラマっぽく…)
馬出しとは、城門前に築いて人馬の出入を、敵に知られぬようにした土手。 この空濠は、明治初期より連隊造営の為、埋め立てられていたもので、 昭和46年から2回に亘る発掘調査により、長辺121m、短辺40mの コの字型、深さ5.6mの規模と確認された。 復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さを約3mとしてある。 (案内板より)
何度見ても凄い!!(左=2008.4.5撮影。桜がきれいだったなぁ〜♪)
椎木門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行七間。 前面に馬出しが設けられていた。 (国立歴史民俗博物館の案内板より・絵と古写真も)
不明門? 二の門跡
椎木門跡の案内板を見て進むと、こんな感じ?って思って、 写してみた。右には空堀があったけど、わかんない…。 東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間。 本丸から大手門に至る第二の門で、二の御門と呼ばれていた。 一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。 門内は二の丸で、藩政を執る役所が置かれていた。 (佐倉市の案内板より・古写真も)
二の丸と佐倉城の礎石
昭和59、60年(1984、85)国立歴史民俗博物館の研究棟を 建設する為に同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には 佐倉城の礎石を埋め込んでいた。明治時代初期(1873) に同じ場所に陸軍の営所をおく際、佐倉城の建物は取り壊し、 その基礎を兵舎の基礎に転用した。 (案内板より)
堀田正睦公像
日本を、鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、 文化7年(1810)8月1日生まれ、文政8年(1825)に、佐倉藩主となった。 天保4年(1833)に、藩政改革を宣言し、文武の奨励によって藩士の 意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に、藩校の 拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、 多くの人材を育成した。 公は、天保12年(1841)に、幕府の老中に就き、安政2年(1855)には 老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられる。「攘夷」が 叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが 必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと 「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。 元治元年(1864)3月21日、公は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、 甚大寺に葬られた。 後に、法号から「文明公」と称えられ、広く敬愛されている。 この銅像は、佐倉ライオンズクラブが正睦公の遺徳を偲び、 クラブ創立40周年を記念し、ゆかりの地に建立するものである。 (渡貫博孝氏の説明より)

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