佐倉城
(真ん中&右の写真をクリック→拡大)
|
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に
土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代の中頃、千葉氏の一族鹿島幹胤によって
初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。
千葉邦胤もここに本城を移そうとしたが半ばにして果さず、
のちの徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年
(1611)正月から7年間を費やし、元和3年(1618)頃に完成した。
以来、徳川幕府では江戸の守りとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を
領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の
営所が置かれ城の施設はことごとく壊された。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。
(案内板より)
|
|
|
|
愛宕坂 |
衛兵所跡(佐倉連隊跡) |
入口 |
入口からの緩やかな坂。 |
ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していた。
(案内板より)
|
|
|
|
田町門跡 |
成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、
門の裏手に番所があった。現在の歴博入口は連隊建設の際、
真っすぐ出入りできるよう変更されたものである。
(案内板より・絵図も)
なるほど、だからキチンと整備してあるんだなぁ(^^)
|
|
|
|
椎木曲輪(侍屋敷) |
歴博があるのは椎木曲輪(侍屋敷地区)で、
連隊時代は兵舎があった。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、
外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社があった。
(案内板より・絵図も)
|
|
|
|
馬出し空濠(パノラマっぽく…) |
|
|
|
|
馬出しとは、城門前に築いて人馬の出入を、敵に知られぬようにした土手。
この空濠は、明治初期より連隊造営の為、埋め立てられていたもので、
昭和46年から2回に亘る発掘調査により、長辺121m、短辺40mの
コの字型、深さ5.6mの規模と確認された。
復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さを約3mとしてある。
(案内板より)
何度見ても凄い!!(左=2008.4.5撮影。桜がきれいだったなぁ〜♪)
|
椎木門跡 |
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行七間。
前面に馬出しが設けられていた。
(国立歴史民俗博物館の案内板より・絵と古写真も)
|
|
|
|
不明門? |
二の門跡 |
椎木門跡の案内板を見て進むと、こんな感じ?って思って、
写してみた。右には空堀があったけど、わかんない…。 |
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間。
本丸から大手門に至る第二の門で、二の御門と呼ばれていた。
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。
門内は二の丸で、藩政を執る役所が置かれていた。
(佐倉市の案内板より・古写真も)
|
|
|
|
二の丸と佐倉城の礎石 |
昭和59、60年(1984、85)国立歴史民俗博物館の研究棟を
建設する為に同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には
佐倉城の礎石を埋め込んでいた。明治時代初期(1873)
に同じ場所に陸軍の営所をおく際、佐倉城の建物は取り壊し、
その基礎を兵舎の基礎に転用した。
(案内板より)
|
堀田正睦公像 |
日本を、鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、
文化7年(1810)8月1日生まれ、文政8年(1825)に、佐倉藩主となった。
天保4年(1833)に、藩政改革を宣言し、文武の奨励によって藩士の
意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に、藩校の
拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、
多くの人材を育成した。
公は、天保12年(1841)に、幕府の老中に就き、安政2年(1855)には
老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられる。「攘夷」が
叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが
必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと
「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。
元治元年(1864)3月21日、公は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、
甚大寺に葬られた。
後に、法号から「文明公」と称えられ、広く敬愛されている。
この銅像は、佐倉ライオンズクラブが正睦公の遺徳を偲び、
クラブ創立40周年を記念し、ゆかりの地に建立するものである。
(渡貫博孝氏の説明より)
|