とちぎけん ぎおんじょう
■祗園城(別名=小山城)=見学自由
■城山公園
駐車場=無料の城山公園駐車場
■小山御殿跡、小山評定跡
【左】二郭から馬出を。(2007/6/2撮影)
2007/6/2現在
住所=小山市城山町1-1
この時は国道4号を、宇都宮方面から小山市へ南下し、県道31号へ右折。
川を渡る手前の大きめの交差点を右折、ずっと進み、突き当たりの手前の道を左折。
その先の左側に城山公園の駐車場。
平安時代に藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)が築いたという伝承もあるが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半の頃からである。 小山氏は、天慶3年(940)に平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、12世紀中頃に、政光を初代として成立した。 政光の妻が源頼朝の乳母だったこともあり、頼朝に味方し、鎌倉幕府の成立に大きな力となり、幕府の御家人として東日本屈指の勢力を誇っていた。 14世紀後半の小山義政・若犬丸の乱で、下野守護であった義政は、鷲城や祗園城などを本拠に鎌倉府軍と戦ったが、これを境に小山氏の勢力は著しく衰退していった。 祗園城は、この乱以降、小山氏の居城となったと考えられている。名称は、城内に祗園牛頭天王社(現須賀神社)を祭ったことに由来するといわれている。 戦国の動乱に際して、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祗園城は陥落、小山秀綱は追放された。 その後、氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われる。 やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後、本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張を完成させ、東西約400m、南北約700mに及ぶ城郭となった。 この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祗園城は廃城となった。(案内板より)
【左】城山公園入口。坂を上がって行くと(車は入れない)、まだ高さがある曲輪に到着。(2007/6/2撮影)
【真ん中】振り返って…。(2007/6/2撮影)
【右】城山公園の石碑。初夏は緑がきれいだから石碑もいい感じ(^^)(2007/6/2撮影)
【左&真ん中】主郭。(2007/6/2撮影)
【右】思川。写真の思川方面に、鷲城がある。この時も、祗園城を見学した後、鷲城へ向かった(^^)(2007/6/2撮影)
【左】主郭と土塁。(2007/6/2撮影)
【右】左の写真の土塁を角度を変えて。(2007/6/2撮影)
【3枚】主郭の土塁の向こうの空堀(旧結城道)に架かる祗園橋。朱塗りがきれいなここのシンボル的橋(^^)(2007/6/2撮影)
【左】空堀の西側(右前=馬出)。西側の方が城らしくて好き。(2007/6/2撮影)
【右】空堀の東側。(2007/6/2撮影)
【左】馬出へ。(2007/6/2撮影)
【真ん中】馬出。(2007/6/2撮影)
【右】馬出側から祇園橋方面。(2007/6/2撮影)
【左】馬出から二郭方面。(2007/6/2撮影)
【真ん中】馬出から二郭方面。写真奥に三郭への道が見えた。(2007/6/2撮影)
【右】馬出から観晃橋。(2007/6/2撮影)
【左】二郭から馬出を。(2007/6/2撮影)
【右】左の写真の右側の空堀。(2007/6/2撮影)
【左】空堀から馬出を(祇園橋の右奥)。(2007/6/2撮影)
【右】馬出周りの空堀。(2007/6/2撮影)