【左】位置図。(案内板より)(2007/6/2撮影)
【右】小山御殿復元図。(案内板より)(2007/6/2撮影)
小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として設けられた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったものといわれている。 徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれる。 それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となる。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも、3代将軍家光は10回、日光参詣を行っている。 小山御殿はかなり厳重な配置になっていたようで、周囲に堀が廻り、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられていた。 将軍家の日光社参は寛文3年(1633)に4代将軍家綱がおこなって以降、8代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難のため中絶する。 この間、大風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体された。(案内板より)
【左】小山御殿跡入口。(2007/6/2撮影)
【真ん中】小山御殿広場。(2007/6/2撮影)
【右】北西側の土塁。(2007/6/2撮影)
【左】小山評定跡の碑と小山評定跡由来が書かれた碑。(2007/6/2撮影)
【右】小山市役所。(2007/6/2撮影)
慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく、小山に到着した。 この時、石田三成が家康打倒の兵を挙げたことを知り、翌25日、この地において軍議が開かれた。これが「小山評定」といわれるものである。 軍議は、三間四方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集した。 福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待通りに決まった。 同年9月15日、関ヶ原の戦いが行われ、東軍(徳川方)の勝利に結びついた歴史上重要な所である。(左の写真の石碑より)
祗園城 2007.6.2記
去年の冬、駐車場を探しまくって見つけられず断念し、今回は違う場所にとめたら、案内板が新しく設置してあった!脱力〜(^^;) でも、冬よりも初夏の方が、緑が映えてきれいだから、返って良かったかも(^^) 公園なんだけど、土塁も空堀もいい感じで残ってて、特に馬出が好きだったな〜。 他にも、小山市役所に小山評定跡、近くに小山御殿跡や説明板があって、かなり堪能できた♪ ちなみに、市役所を見るんだし…と小山市役所第二駐車場を利用した。