富山城石垣の石材 | ||
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(左)時計回りで「○の中に二」、「□」、手前は?
(真ん中)白くなった部分に、墨書記号でつぶれたコの逆。
(右)卍。 他にもいろいろと置かれていた。それにしても、小さいサイズにすると、 やっぱり見えないなぁ…。(2008.7.26撮影) |
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二階櫓門礎石 | 櫓礎石 | 重なった石材 |
二階櫓門は、二の丸の入口(現在の富山国際会議場前辺り)に、 建っていた。一階を門、二階を櫓とした櫓門で、最も厳重な 形式の城門だった。正面の幅、約13.5m、高さが約13.6mあった。 この方形の礎石は、扉の両側に建つ本柱の礎石と考えられ、 太さ1尺の角柱が復元される。(案内板より) | 慶長期(1605年頃)の柱礎石である。 8寸(約24cm)角の柱を置くため方形に掘り込み、 中央に径10cmの円形のホゾ穴をあけている。 この礎石は、前田利長が築造した慶長期石垣上に 櫓という建物が存在したことを裏付ける。 柱の太さは、金沢城五十間長屋の柱より 一回り大きなものである。奥の控え面には「+」 の小型刻印がある。(案内板より) | 別々に使われていた石材が偶然ぴったり合った。 これにより、@玉石の全面を落として石面を作る、 A残りを半分に割る、という「2分割」の石割技法の 順序を復元することができる。上の石の割面には、 大きさ5寸(約15cm)の記号墨書「○の中に-」がある。(案内板より) |
前田正甫公像 | 佐伯宗義像 | 大伴家持像 |
(左)富山藩・2代藩主、富山売薬の祖。 (真ん中)富山地方の鉄道を築いた。 (右)越中国主で歌人。(2004.4.29撮影) | ||
千歳御門 | ||
千歳御門は、嘉永2年(1849)に、第10代富山藩主・前田利保が隠居所として
造営した「千歳御殿」の正門として建てられた。
正式には「埋門」と呼ばれ、
正面が3間(約6m)、側面が1間(約2m)ある。
総欅造りの大型の薬医門で、建築様式は
東京大学赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)と共通している。
当時は、敷地の南西端(城址大通り東側、桜木町11番の中央パーキング付近)に
建っていた。
富山城で唯一、現在に残る建造物という事だけではなく、全国的に見ても
数少ない御殿の門であると評価されている。
明治時代に、赤祖父家に払い下げられ、米田地内に移されたが、
所有者の方より寄贈を受け、「城址公園整備工事」の一環として、
城址内へ移築された。 H20.3月
(富山市教育委員会の案内板より) (左)外側。(右)内側。本丸は工事中だったので遠くから。 下に白く写るのはコンクリート。 本丸東側に移築され、石垣も整備されていた。(2008.7.26撮影) |
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搦手口の石垣 | 左側の素敵な石垣 | 佐藤記念美術館 |
ここから入ると本丸で、右側には城郭風の建物の佐藤記念美術館がある。 (左=2008.7.26、他2枚=2004.4.29撮影) | ||
堀跡(東側) | 佐藤記念美術館の東側 | 機関車9628号 |
佐藤記念美術館の東側が堀跡で、 隔てて東出丸。 (2008.7.26撮影) | 関係ない建物だけど、緑と光の当たり方が素敵〜(^^) (2004.4.29撮影) | ID加熱テンダ機関車。退職後は ここでひっそりと隠居中。(2008.7.26撮影) |
千歳桜の碑石 | 松川 | 景雲橋 |
■千歳桜の碑石…
江戸時代、富山10代藩主・前田利保が藩主の座を第6子・利友に譲った
後、嘉永2年(1849)5月28日、新しく東出丸(現在の桜木町一帯)に、
千歳御殿を築城した。
利保は千歳御殿に移り、桜を多く植えて風致を添えたので
千歳桜といった。
後代、桜が老化したので昭和9年、風雅会が35周年を記念して
この碑を建て、新しく松川の堤に桜の植樹を行った。
(富山市の案内板より) |
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■富山城3回目…2008.7.26記
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