【和歌山城 その1】

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和歌山県 和歌山城 わかやまけん わかやまじょう
■和歌山城=350円
開館時間=3月〜11月・9時〜17時(入場は16時半)
      =12月〜2月・9時〜16時半(入場は16時)
休館日=12/29〜12/31
駐車場=有料駐車場(和歌山城隣接 2時間350円)
                     (2004.8.3現在)      
住所=和歌山市七番丁23
この時は南紀方面から国道42号を走り、県庁前交差点を右、 (結構すぐだった気が…)護国神社を過ぎて左手に駐車場。 Pの文字が木に隠れた感じなので、わかり辛い。 市役所近辺の駐車場はバス用。

和歌山城
本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形態が虎の伏した姿に見えるから)の 頂に位置し、東部の本丸御殿と西部の天守閣(曲輪)で構成。 本丸御殿は、浅野期には二の丸と呼ばれ藩主の日常生活が営まれたが、 徳川期以降はその機能を失い空御殿になった。天守郭は、大天守・小天守・御台所 ・乾櫓・二の御門櫓・楠門を多聞で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立式 天守の形態。 江戸初期の天守は、弘化3年(1846)の落雷により焼失。幕府は通常、城郭再建を許さなかったが、 御三家紀伊徳川家の居城であった為特別に許可、4年後の 嘉永3年(1850)に「有形の通」に再建。 昭和20年(1945)に戦火を蒙り、再び焼失。その後10数年間は 天守台のみの姿であったが、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造の天守が復元された。 (案内板より)
和歌山城と歴代城主
天正13年(1585)豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命を受け、和歌山城の築城にとりかかった。 が、完成を見ずに大和郡山にあり、その後、和歌山の地へ戻る事はなかった。 翌天正14年(1586)秀長の家臣桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城。 桑山氏は14年間の在城期間に本丸部分を中心に築城を進めた。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が、37万6千石を領して和歌山城の 城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の 在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にする等その後の基礎となる 築城工事を次々と行った。 元和5年(1619)浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第10子徳川頼宣が55万5千石 を領して入城。以後、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」 として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担う。 頼宣の入城の際には銀2千貫が支給され、入城直後から 大規模な整備工事や城下町の拡張整備を実施。これらの政策はその後250年間続く 和歌山の繁栄の基礎となった。
不明門(あかずのもん)跡
不明門は元和年間の創建による単層入母屋造り本瓦葺き であったが明治の廃藩とともに次第に損傷し大正初年に取り壊された。 この城門は往昔から開扉せず万一、落城の場合は城内から 岡山に抜け大智寺で陣を構え、不幸敗北の時は、船に乗って 菩提所浜中長保寺に逃れる間道口であったと伝えられている。(案内板より)

(右)駐車場入口。駐車場入口から入ると目の前には、不明門跡。 車を置いて後戻り。 車が入庫の場合は狭いので、歩く時も、車ですれ違う時も注意。
水禽園(すいきんえん) 童話園
水禽園も童話園も無料で見る事が出来る。朝早く行ったので、 掃除中だった。平日の朝一だから貸切状態(^^)
(左)ペリカンがいるけど、小さすぎて見えないな(^^;) (真ん中)ホオジロカンムリヅル。 鳴き声がギャーと面白い。
石垣の刻印
和歌山城の石垣のうち、2110個に刻印がある事が 分かっている。この新裏坂周辺で、坂の西方に続く 石垣に854個と約4割が集中している。 刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、 方位や日付、人名と考えられるものもある。 また、刻印のある場所は右の正面だけでなく、側面や上下とあらゆる面にわたっている事が 確認されている。 石垣の刻印は、全国的には慶長(1596〜1615)から寛永(1624〜1644)期に築かれた物に多く見られるが、 何の為に刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除け 等呪術的使用など諸説があり、はっきりとは分かっていない。 和歌山城研究家として知られる故松田茂樹氏は、刻印のある石垣が和泉砂岩に限られ、 浅野家が城主だった時代(1600〜1619)に修築された石垣にしか使われていない事等から、浅野家の家臣が 主家の城普請に協力した印として刻印したと見ておられる。(案内板より)
(左)◎は違う場所だけど、この石垣には左の絵の様な刻印がいっぱい! 面白い!
楠門
天守閣の二の丸にあたり、総楠木造りであった為楠門と称されている。 弘化3年(1846)雷火焼失に伴い嘉永3年(1850) 再建され国宝建造物として指定を受けていたが、 昭和20年(1945)戦火の為またも姿を消した。(案内板より)
乾櫓 小天守・大天守
楠門を抜けると、二の門櫓、
乾櫓、天守への入口がある。
それにしても、壁に、日差しが
反射して眩しかったな…(*_*)

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