天守 | ||
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天守からの景色 | ||
(左)和歌山城の模型。 (真ん中&右)西。和歌山港方面で、橋が見える。 | ||
(左)北。高い白い建物が和歌山市役所。 (真ん中)東。右が本丸跡。左が二の丸庭園。 (右)南。 | ||
ライトアップ | ||
本丸御殿跡(城内給水場) | ||
本丸御殿は元和年間に創建された物で、中央に「七福の庭」 を配していた。文久3年(1863)3/10〜翌年10/26迄 14代藩主徳川茂承(もちつぐ)公夫人(倫宮則子)が住み、「宮様御殿」 とも称した。正室が住んだのは始祖徳川頼宣公以来。 廃藩後この御殿の一部が移築された市内小倉光恩寺の庫裡(御殿の御台所) は現在唯一の建造物。大正12年(1923)上水道貯水池設置。(案内板より) | ||
岡口門 | ||
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岡口門側から大手門方面へ | ||
(左&右)格好いい石垣! (右)表坂登り口。汗がダラダラ出てくるし、今回は登るのはパス(^^;) | ||
大手門 | ||
浅野・徳川時代を通して、大手門(表門)として機能。 当初は一之橋御門と呼ばれていたが、寛政8年(1796)に、大手御門と 改称。明治42年(1909)、自然倒壊し撤去。昭和58年(1983)一の橋と共に 再建工事が施工、高麗門形式に復元。(案内板より) (左)大手門にかかる一の橋。 (真ん中)内側。(右)大手門から北堀を。 | ||
二の丸御殿跡(二の丸広場) | ||
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御橋廊下(復元工事) | ||
二の丸と西の丸を行き来する為の橋。二の丸には、
藩の政務を行う建物と藩主の私邸、西の丸には、隠居した藩主が日常過ごす
屋敷と、能舞台や茶室等、藩主が自然風雅を楽しむ為の建物があった。
藩主とお付きの人だけが渡る為の橋である為、屋根を設け、
外から見えないように部屋の廊下の様な作りになっていた。
和歌山市では、全国の城郭建築にも珍しい「御橋廊下」を、整備計画の一つとして
復元する事になった。(工期 H15.10/3〜H18.3/18) |
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紅葉渓庭園(西の丸庭園) | ||
紀州徳川藩祖、頼宣公が西の丸御殿に築造した物で、紅葉渓の
名で親しまれてきた。紅葉渓橋・土橋・石橋を架け、鳶魚閣
・腰掛・茅門の建物等がある。 (左)アヒル率いるカモ達が可愛かった! (左下)鳶魚閣(えんぎょかく)。 (下真ん中)紅葉渓橋。 (右下)茶室。 |
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山吹渓 | 鶴の渓(たに) | 砂の丸(砂の丸広場) |
鶴の渓は、東方二の丸切手門から西方砂の丸鶴の門に至る一帯の 閑静なる渓谷の総称。また南側石垣上に山吹が繁茂していたので またの名を山吹谷という。先代藩主浅野公はここで鶴を飼育して いたのでこの名があり当時の「鶴の餌鉢」は現在和歌山城天守閣に保存。 (案内板より) | ||
追廻門 | ||
高麗門形式で門外扇の芝に操練所があり、騎射の稽古の為の追廻し馬場があったので、 追廻門と称するようになった。創建は寛永6年(1629)と伝えられ当時から 朱が塗られていた。 (右)近くに立っていた城址碑。 | ||
■和歌山城
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