【山形城 その1】

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山形県 山形城 やまがたけん やまがたじょう
■山形城(別名=霞ヶ城)=見学自由
■霞城公園
駐車場=無料駐車場       (2006.7.29現在)
住所=山形市霞城町1
この時は、上山市方面から国道13号を山形市方面へ進み、 途中で、左の国道112号(山形市街)へ。 ひたすら国道112号を進み、あとは、霞城公園の看板を左折。

山形城 (写真をクリック→拡大)
山形城は、延文元年(1356)斯波兼頼により、創建されたと伝えられている。 現在の山形城跡は、文禄年間(1592〜95)第11代山形城主最上義光 (よしあき…最盛期57万石)により拡張され、 鳥居忠政の時代(1622〜28)に、ほぼ現在の形に整えられた。 城は本丸・二の丸・三の丸の堀をめぐらし、その規模は東西1480m、 南北1881mに及び、現在の山形駅、七日町までを含む面積約240ha の全国有数を誇る平城であった。また、霞で城郭が隠れる事から、 霞ヶ城とも呼ばれていた。 明治29年(1896)、二の丸内に歩兵32連隊が設置され、その時本丸の石垣、 堀が埋め立てられてしまった。終戦後昭和23年(1948)、山形市が国から 払い下げを受け、スポーツ・文化施設を整備し、霞城公園として市民に 開放された。 昭和61年5月、二ノ丸堀から内側の地域が、近世初期の面影をとどめている 全国有数規模の近世城郭として国の史跡に指定された。 山形城の石垣は、市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、 割肌を表面に見せる野石積みで日本でも類を見ない優美で堅固な石垣である。 (案内板より)
北門から堀を挟んだ左側(パノラマっぽく)
(左)出っ張った部分に二重櫓跡。 (真ん中)古絵図と同じで、ちょこっと出ている部分(^^) そして、右に北門と続く。
山形城址碑 北門
北門から駐車場へ。駐車場付近の案内板を見てたら、 駐車場の受付の方がウォーキングマップを くれた(^^)
北門の石垣の上 平櫓跡 野球場横の二の丸の土塁
北門から入って右側方面の、出っ張った部分の上。 その奥を進むと平櫓跡。 いい感じで土塁が続いてた♪
二の丸東大手門前の広場にある最上義光公勇戦の像
従四位上左近衛少将出羽守最上義光(よしあき)は、山形城主義守の嫡男として、 天文15年(1546)正月この地に生まれた。 最上氏は源氏の流れを汲み、南北朝時代の初期奥州探題斯波氏の一族、 修理大夫兼頼がはじめて山形に入部し、この地方を統治した。 以後、代々最上姓を名乗り、約1世紀を経て戦国乱世にいたり、 群雄各地に割拠して、奥羽地方もまた騒乱が絶えず、山形最上氏は、 隣邦の侵略圧迫により、衰運に傾きさらにその後、1世紀の間は存立も 疑われた。 義光は逆境の中に生まれ、山形の再興と隆盛を期して外敵の侵犯を排除し、 最上村山地方を平定して、その統一を実現した。
殊に慶長5年(1600)の秋、関ヶ原合戦の折、徳川方に属した山形に 会津上杉氏の武将、米沢城主直江山城守は大軍をもって来襲し、 既に落城の危機に直面したが、義光自ら陣頭に立って勇戦敢闘し、 山形城を死守した。その功により庄内三郡、秋田由利郡を与えられ、 いわゆる「出羽百万石」の一大領国を築き上げ、東北第一の大名となった。 その府城として大規模の山形城を構築し、城下都市建設に力を注ぎ、 まず城外に商業街を設定し、また工業職人街を特設して、諸役務を 免除する等人口の集中と民生の安定を図った。 さらに最上川を改修して舟運の便を開き、灌漑排水路を開拓して、 新田造成を促進する等、産業の振興、物資流通の基礎を築き、 神社、仏事を尊崇保護して民衆教化に寄与すると共に、建築、美術、 文学など各方面にわたって中央の文物を導入し、草深い出羽の国に 文化の華を咲かせた。のみならず自ら深く連歌をたしなみ、文の面に おいても第一級の才能を示した。慶長19年(1614)正月十八日、 68歳をもって山形城に没した。(最上義光公顕彰会の案内より) (右)最上氏時代の山形城絵図・案内板より。
二の丸東大手門を広場側から(パノラマっぽく…は厳しいかな)
暗雲が立ちこめて来た〜(^^;)この後、 ポツポツと降られちゃったけど、 傘持参してて事無きを得た(笑)
くぐると、桝形になっていて、高麗門へ。
二の丸東大手門(パノラマっぽくもならず…)
二の丸東大手門は山形城の正門である。 枡形の南北両側に多聞櫓を持つ独特な形式の 桝形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模を持つ。 現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真などを参考にして、 櫓門・多聞櫓・高麗門・土塀が、日本古来の建築様式により、木造で復元され、 平成3年3月に竣工した。工期45ヶ月、工費11億円余。 (案内板より)
二重櫓跡 旧済生館本館(山形市郷土館) 山形城嘘碑
二の丸東大手門から南の端の
二重櫓跡を。…どこが端なのか。
左は、山形新幹線の線路。
明治11年(1878)、山形城旧三の丸の 七日町大手門を入った所に、 県立病院として建てられたもの。 (山形市教育委員会の案内板より) 明和4〜弘化2年(1767〜1845)の78年間、山形城主を務めた 秋元家の旧石碑文。  凄くひっそりとした場所に。

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