山形県 山形城 |
■山形城(別名=霞ヶ城)=見学自由 ■霞城公園 駐車場=無料駐車場 (2006.7.29現在) |
住所=山形市霞城町1 この時は、上山市方面から国道13号を山形市方面へ進み、 途中で、左の国道112号(山形市街)へ。 ひたすら国道112号を進み、あとは、霞城公園の看板を左折。 |
北門から堀を挟んだ左側(パノラマっぽく) | ||
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(左)出っ張った部分に二重櫓跡。 (真ん中)古絵図と同じで、ちょこっと出ている部分(^^) そして、右に北門と続く。 | ||
山形城址碑 | 北門 | |
北門から駐車場へ。駐車場付近の案内板を見てたら、 駐車場の受付の方がウォーキングマップを くれた(^^) | ||
北門の石垣の上 | 平櫓跡 | 野球場横の二の丸の土塁 |
北門から入って右側方面の、出っ張った部分の上。 その奥を進むと平櫓跡。 | いい感じで土塁が続いてた♪ | |
二の丸東大手門前の広場にある最上義光公勇戦の像 | ||
従四位上左近衛少将出羽守最上義光(よしあき)は、山形城主義守の嫡男として、
天文15年(1546)正月この地に生まれた。
最上氏は源氏の流れを汲み、南北朝時代の初期奥州探題斯波氏の一族、
修理大夫兼頼がはじめて山形に入部し、この地方を統治した。
以後、代々最上姓を名乗り、約1世紀を経て戦国乱世にいたり、
群雄各地に割拠して、奥羽地方もまた騒乱が絶えず、山形最上氏は、
隣邦の侵略圧迫により、衰運に傾きさらにその後、1世紀の間は存立も
疑われた。
義光は逆境の中に生まれ、山形の再興と隆盛を期して外敵の侵犯を排除し、
最上村山地方を平定して、その統一を実現した。 殊に慶長5年(1600)の秋、関ヶ原合戦の折、徳川方に属した山形に 会津上杉氏の武将、米沢城主直江山城守は大軍をもって来襲し、 既に落城の危機に直面したが、義光自ら陣頭に立って勇戦敢闘し、 山形城を死守した。その功により庄内三郡、秋田由利郡を与えられ、 いわゆる「出羽百万石」の一大領国を築き上げ、東北第一の大名となった。 その府城として大規模の山形城を構築し、城下都市建設に力を注ぎ、 まず城外に商業街を設定し、また工業職人街を特設して、諸役務を 免除する等人口の集中と民生の安定を図った。 さらに最上川を改修して舟運の便を開き、灌漑排水路を開拓して、 新田造成を促進する等、産業の振興、物資流通の基礎を築き、 神社、仏事を尊崇保護して民衆教化に寄与すると共に、建築、美術、 文学など各方面にわたって中央の文物を導入し、草深い出羽の国に 文化の華を咲かせた。のみならず自ら深く連歌をたしなみ、文の面に おいても第一級の才能を示した。慶長19年(1614)正月十八日、 68歳をもって山形城に没した。(最上義光公顕彰会の案内より) (右)最上氏時代の山形城絵図・案内板より。 |
二の丸東大手門を広場側から(パノラマっぽく…は厳しいかな) | |
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暗雲が立ちこめて来た〜(^^;)この後、 ポツポツと降られちゃったけど、 傘持参してて事無きを得た(笑) | |
くぐると、桝形になっていて、高麗門へ。 | |
二の丸東大手門(パノラマっぽくもならず…) | ||
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二の丸東大手門は山形城の正門である。 枡形の南北両側に多聞櫓を持つ独特な形式の 桝形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模を持つ。 現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真などを参考にして、 櫓門・多聞櫓・高麗門・土塀が、日本古来の建築様式により、木造で復元され、 平成3年3月に竣工した。工期45ヶ月、工費11億円余。 (案内板より) | ||
二重櫓跡 | 旧済生館本館(山形市郷土館) | 山形城嘘碑 |
二の丸東大手門から南の端の 二重櫓跡を。…どこが端なのか。 左は、山形新幹線の線路。 |
明治11年(1878)、山形城旧三の丸の 七日町大手門を入った所に、 県立病院として建てられたもの。 (山形市教育委員会の案内板より) | 明和4〜弘化2年(1767〜1845)の78年間、山形城主を務めた 秋元家の旧石碑文。 凄くひっそりとした場所に。 |
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