【萩城 その1】

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山口県 萩城 やまぐちけん はぎじょう
■指月公園・萩城跡(別名=指月城)
料金=大人210円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋共通)
開場時間=4月〜10月=8時〜18時半
       11月〜2月=8時半〜16時半
            3月=8時半〜18時
駐車場=萩市営(有料)&無料  (2005.1.2現在)
住所=萩市堀内二区1-1
中国自動車道山口ICから国道262号を萩方面へ、国道2号線を右折。 国道9号へ進み、国道262号(複雑かも)へ、 萩有料道路を走り、終わると左に店が見え、少しして すぐ左折(下は線路)、道なりに左に交わり、そのまま 県道64号を進み、信号のある交差点(国道191号の高架下をくぐり) を直進、少しして左の玉江駅を右折し橋を渡る。 少しして信号を左折。すぐ右のお土産屋(無料)か隣の市営(有料)へ駐車。

萩城
関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将・毛利輝元は、 長門・周防2国に移封された。 輝元は慶長9年(1604)日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、 4年後の同13年(1608)に完成。 萩市街の西北隅、指月山(標高143m)の麓に位置し、 山名を取って指月城とも呼ばれた。 山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。 当時の輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少の為、 築城後も政務を執っていた。以後代を重ねる事、13代敬親に至って 幕末多端の国事を処理するに不便な為、文久3年(1863)4月山口に移った。 ついで明治7年(1874)建物のすべてが解体。本丸には高さ14.5mの5層の 天守閣があったが、今は台座のみ残っている。周囲には石塁を築き、 内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。 内堀に接してその外に二の丸があり、さらに中堀を挟んで広大な三の丸が 城下町と外堀を隔てて作られていた。この城は259年間防長両国政治の中心であり、明治維新に大きな役割を 果した重要拠点だった。

■天守閣について…本丸の南西に当たる位置に高さ14.4m、下層は東西19.8m 南北16.2mの 5層の天守閣があった。最上階は高欄をめぐらした桃山初期の形式を示す 白亜のもので、初層が石垣の外に張り出した俯射装置として利用できる様になっていた。 (案内板より)
中堀跡 南門跡 毛利輝元公像
■毛利輝元… 天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城 (現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の 覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父隆元の死去に 伴い家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8カ国112万石を 領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に居城を築いた。 豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで 敗れ、周防・長門2ヶ国36万9千石に削封された。慶長9年(1604)居城を萩に選定し、 同年11月11日、萩城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めると共に、 萩藩経営の安定に腐心した。寛永2年(1625)73才で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に 葬られた。(萩市の案内板より)
本丸門 何の石垣かはナゾ 塩矢倉跡
天守閣 天守閣の礎石?
この石段を上る時、凄くワクワクした(^w^) 何があるってわけじゃないんだけど(笑)石は本物なのかな?
指月山(詰丸跡) 指月山の入口 指月山の手前付近
麓の平城に併せ山頂に詰丸を設け、狭いながら本丸・二の丸を置いて 陸と海とを監視する為、矢倉数箇所・天水溜二箇所等を持つ望楼であった。 登山道約730m、所要時間20分で詰丸跡に達する。(案内板より) (右)いい感じで雪が♪

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