梨羽家茶室(煤払いの茶室) |
旧福原家書院 |
東郊、中津江にあった萩藩寄組士梨羽家(3,300石)の別邸茶室で、
年末の城内煤払いの際、藩主が一時ここに休憩した事からこの名がある。
茶室としても江戸時代中期の花月楼形式の優れたものである。
(案内板より)
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福原家は厚狭郡宇部(宇部市)に給領地(11,314石余)を持つ萩藩の
永大家老として代々仕えてきた。この建物は三の丸(堀内)にあった萩屋敷内の
書院で、明治15年(1882)に現在地に移築。
屋根は寄棟造り桟瓦葺き、桁行10.57m、梁間7.1mで北面に桟瓦葺きの庇を付けている。
内部は上段10畳の桜の間と下段10畳の紅葉の間の二つの部分とし、典型的な書院造り。
建築年代は天明年間(1781〜88)頃と思われるが、当時の重臣の住居を知る上で貴重な建物。
(萩市教育委員会の案内板より)
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明倫館 遺構 万歳橋(ばんせいばし) |
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嘉永2年(1849)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じ様に聖廟の前に
水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。はん(=さんずいに半の文字)水ははん池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、
諸侯の学校である事の象徴である。はんは半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水が無い事を意味している。
橋は花崗岩で作られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁を
渡し、その上に10個の短冊石を横に並べており、中国風のデザインを施した太鼓橋である。
(萩市の案内板より)
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東園 |
本丸跡 |
■東園…
二代藩主毛利綱広(1651〜82)は農事を重んじ城内のここに稲田を設けて、
自ら耕し勧農の意を示した。のち元文年間(1736〜40)作成の萩城下絵図には
「御茶屋」として橋の架かる池と建物が描いてある。元文2年から数年間
明倫館学頭となった山県周南の「東園記」によると、ここには昔から池があったのを
利用して茶人の李渓の設計で庭を築き、藩主のくつろぐ所とした。
園内の山寄りには元禄11年(1698)建立の二の丸天神があったが東園はその後に
完成したもの。引き続いて園内には池水を導いて永く稲を植える所を
残し、更にのち池の一部を耕田に復し、農事を勧めた由緒ある庭であった。
明治以降城の解体と共に廃れ、池は庭石と共に埋められたが、大正14年
池を中心に大体を復元した。(案内板より)
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御台所門跡 |
北矢倉跡 |
■北矢倉跡…
この付近は釣りバカ日誌のロケ撮影地。
西田敏行さんが出る映画(^^)北矢倉跡は草がびっちり〜。
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北矢倉跡(左の石垣)と海 |
潮入門跡 |
海につながる門があったのかな〜って思って、
こんな風に写してみたよ。
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こっちも海につながる門。 |
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二の丸土塀(銃眼土塀) |
二の丸は東西153間、南北58間で、その内に13の矢倉、
井戸34箇所、蔵元役所等があった。
東門から潮入りに門に至る土塁に城壁が続いていたが、
この土塀は昭和40年春一部復元したもの。
(萩市の案内板より)
壁側は急な石段があるけど怖い…(^^;)
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