【岐阜城 その1】

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岐阜県 岐阜城  ぎふけん  ぎふじょう
■岐阜城(別名=稲葉山城)
■岐阜公園、金華山=見学自由
岐阜城=大人200円(資料館共通)
営業時間=期間、夜景等で、開館&終了時間が細かく変動。
金華山ロープウェー=大人片道600円・往復1050円
休日=年中無休                  (2004.9.19現在)
駐車場=なし(付近有料駐車場)※一方通行多し
※岐阜城のページは、2004.9.19と2008.10.13の写真を使用。
住所=岐阜市金華山天守閣18
(この時は)東海北陸自動車道 岐阜各務原ICから国道21号〜岐阜環状線77 号を西へ。県道1号になってずっと走って、国道157号へ右折、 国道256号を長良橋方面へ北上。 「長良橋南」交差点に岐阜公園駐車場の案内看板があるので、 斜め左に入り、右に走る道の下の方に、岐阜公園駐車場の案内看板が右に出る。 そこを右折し、道の下を通り抜け(一旦停止しないと左側から車が来る!) 真っすぐ行き、少しすると右に案内看板があって中国風の建物の手前を右折。 そして右側に駐車場がある。

岐阜城の歴史
■二階堂行政〜長井新左衛門尉■ 鎌倉時代の建仁元年(1201)、鎌倉幕府の政所令 二階堂山城守行政が軍事目的の為に ここに砦を築いたのが築城の始め。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えた。 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩等で豪族として栄えた。 美濃の場合、関の新長国寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏。 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城と言われるように。 戦国時代の動乱の中、土岐・斎藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、 再び城を築き城下町も出来た。大永5年(1525)美濃国で内乱がおき、 守護土岐氏と守護代斎藤氏の実権は、長井氏に移った。 稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していたが長井氏に追放され、 長井新左衛門尉の居城となった。 新左衛門尉は斎藤道三の父親と言われ、大永から享禄年間(1521〜32) の史料に、名前がしばしばでてくる。 (岐阜市の案内板より)

■斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)■ 斎藤道三が、灯油売り商人として京都から美濃国へ下り、 守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃一国を征服した事は「国盗り物語」 等で有名。 しかし、最近発見された南近江の大名六角承禎書状から、 道三の前半生は父の長井新左衛門尉の事であり、後半生が 道三の事蹟という事がわかった。 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通と 七曲通に住人を集めて城下町を作った。 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取引を盛んにした。 天文23年(1554)道三は突然隠退、家督を子の新九郎利尚(義龍)に 譲ったが、父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死した。 義龍は戦国大名として領国経営に力を注いだが、道三死後、 僅か6年で突然病死、後を幼い虎福丸(龍興)が継いだ。 しかし、斎藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、 永禄7年(1564)家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が 一時期占拠される事件がおきた。 その後、竹中氏らは敗北。再び龍興の手に戻ったが、斎藤氏は一挙に衰退。 永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略 され、龍興は城を捨てて逃れた。 (岐阜市の案内板より)

■織田氏三代(信長・信忠・秀信)■ 永禄10年(永禄7年とも)斎藤龍興を稲葉山城から追放した信長は、 井之口を「岐阜」と改称、「麟」(りん)の字の花押と共に、 「天下布武」の印判を使用し始め、岐阜の地を拠点とし、 天下統一を目指した。 (岐阜市の案内板より)

稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行い、 斎藤氏の居館を壊し新しい館の建設を始める。 また城下町の繁栄を図る為、市場税の免除や座(中世商工民の組合) の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜城 入城2年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは町の様子を「人口は 八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと本国へ報告している。 天正3年(1575)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌4年に安土城を 築き、移った。 しかし、天正10年(1582)明智光秀の謀反による本能寺の変で、信忠と共に京都で討死。 その後、神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝が城主となる。 文禄元年(1592)豊臣秀吉は信長の孫秀信を岐阜城主に 封じた。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、秀信は家臣の反対を 押し切り西軍の秀吉方に味方した為、東軍の徳川方の、福島正則・池田 輝政に攻められ8月23日落城、 秀信は降伏、高野山へ送られ同地で死去した。 (岐阜市の案内板より)

■その後■ 慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移築され、 江戸時代には金華山頂に天守閣は建築される事はなかった。 明治43年(1910)木造の模擬城が建設されたが、昭和18年(1943)焼失。 昭和31年7月、鉄筋コンクリート造り、三層四階 構造で延べ461.77u、棟高17.7mの天守閣を再建した。 平成9年(1997)大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な 天守閣の姿を再現した。(岐阜市の案内板より)

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