【岐阜城 その4】

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織田信長居館跡
金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な2〜3段のテラス状地形があり、 最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗な物として紹介した信長の居館の跡 といわれている。 昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら 上っていく通路を始め、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路等発見された。

岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の前哨戦で落城するまで続くが、 これらの遺構の多くは、その出土品等から信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。 巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や 搦手門等にうかがえるが、この時期には稀である。 発掘調査では、これらの遺構の下に更に古い時代の遺構群が存在する事が確認されている。 石垣・石積施設・階段状遺構等で、これを破壊、又は埋めて作られた通路など上層遺構が 信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。又、数枚の整地した土層が 上下に重複している事が確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の 焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われた事を示唆している。 壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、 中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。(案内板より) (右)織田信長居館跡碑。(2008.10.13撮影)
土塁と石列 掘立柱建物跡 巨石-A
(左)この頃の方が、寒かったのか、 よく色付いてるなぁ〜。(左=2004.9.19撮影。巨石等は全部=2008.10.13撮影)
巨石-B 巨石-C 巨石-D
巨石-E 巨石-F 巨石-G
信長公の宮殿へ続く通路
虎口呼ばれる折れ曲がった通路の両側には、 巨大な石を使った石列が続いている。 大きな板状の石を立て並べて、裏側に石 (裏込め石)を詰めて造られており、石材にはチャートという 金華山で採れる石が使われていた。 その様子は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの記録に ある「裁断されない石の壁」を彷彿とさせる。 巨石列は全国的にもあまり例がなく、岐阜城・信長居館の 入口を象徴する構造物といえるであろう。壮大な石の城作りを 試みた信長の先進性をうかがうことができる。 (案内板より)
(左)右の写真の右の高台から。 紅葉がほんのりきれい〜♪(2008.10.13撮影)
入角と出角・下層石積
左手の石垣はクランク状に折れ曲がり、 入角(いりずみ)と出角(ですみ)をもつ。 このように石垣を意識的に屈折させる事は 後に盛んになるが、本例はその初源的な物と思われる。 現在は一段が残存しているに過ぎないが、 出角の石が山側へ傾いて置かれていて、 本来はこの上に勾配をもった かなり高い石垣があった事を想像させる。 最下段の比較的大きな石が発掘調査で出土した石垣遺構で、 他の小さな石は土砂の崩壊を防ぐ為に今回積んだ物である。 周囲より一段低い位置にある右手の石積は、 これより時代の古い下層の石積で、左手の石垣の築造時に 埋められている。小さな石を使用して積み上げて いて対照的である。北西側の下層遺構群と 同時期の可能性があり、織田信長入城以前の物と思われる。 高さ約2mあるが、そのうち 1mを展示。(案内板より) (2008.10.13撮影)
下層遺構群
■2004.9.19の説明版… 比較的小さな石を用いて構築された遺構。 東西及び南北方向の二列の石垣によって区画され、東西方向の石垣の北側に 用途不明の長方形の石積施設、南北方向の石垣の南に山側へ上る階段状遺構がある。 巨石列の裏側に位置し、通路建設時に埋められている。 従ってこれより古い時代、永禄10年(1567)織田信長入城以前の物である可能性が高い。 東側に広がっていると推定される下層の遺跡の一部であるが、発掘した部分の遺構のみを、 上層を切り取った形で展示。

■2008.10.13の説明版から補足… 永禄10年(1567)の信長入城以前、ここには斎藤道三、義龍、龍興の 居城があった。見つかった階段などはその時代のものと考えられる。 斎藤時代の地面の上には炭層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した 際、火災が起こったことを物語っている。 居館の入口は巨石列通路で大きく改変されたが、段々の地形など基本的な 部分は斎藤氏の時代に造られたと考えられる。 (案内板より) (2008.10.13撮影)
水路と石垣、階段跡
■2004.9.19の説明版… 通路から続く小規模な平坦地で、礎石建物跡の一部の他、 南端に上段部への上がり口、東端に水路がある。 水路は谷の中央を流れ、この平坦地の 東で「く」の字に折れる形の物。 両岸の石垣は各部分で石の積み方に違いがある。上段部への 上がり口から東へ延びる水路南岸の本格的な石垣は、 後に城郭石垣の代名詞となる「穴太(あのう)積み」の 初期の形を示している。 なお、発掘調査で上下に重なる時期の異なる 水路が発見され、上層石垣には火災の跡がある。 下層の水路は保護の為埋め戻し、各石垣の上半分は水路中に転落していた 石等で積み直した。 

■2008.10.13の説明版から… 右手の階段は、直線的に伸びることが 発掘調査で確認されている。フロイスの記録では、 信長の宮殿へ至る過程で「広い階段」を上る記述が出てくる。 (真ん中)左の写真の突き当たり。(2008.10.13撮影)
冠木門 織田信長居館跡の石碑
2本の門柱の上の方に、冠木と呼ぶ横木を貫いて渡した 形式の門。千畳敷の発掘調査では門の跡が発見された事は無く、 その位置・形は不明だが、織田信長居館跡の整備にあたり、 岐阜城の館が建てられていた頃の雰囲気を伝える為、往時の姿を想定した門を設置、 史跡の入口とした。(案内板より)
  (真ん中)菊人形展の屋根が、邪魔に…。 (2004.9.19&2008.10.13撮影)
前回の方が、邪魔なもの(屋根)
が無いので使用。(2004.9.19撮影)

■織田信長居館跡…2回目・2008.10.13記
ここの様子は前回と変わらないけど、説明碑の内容が変わってたり、 他が発掘調査中だったりと、ワクワクした〜(≧▽≦)
■織田信長居館跡…1回目・2004.9.19記
岐阜城の散策の後、信長さんが住んでた場所!とドキドキしながら散策。 しかし、ときめき空しく、信長さんの頃の遺構は発見されていないとの事。 ええ〜。そうなの〜。ちょっと、ガックリ〜(^^;)

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