【赤穂城 その1】

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兵庫県 赤穂城 ひょうごけん あこうじょう
■赤穂城=見学無料
■赤穂城跡公園
■本丸庭園=無料(9時〜16時半/入園は16時迄)
休園日=年末年始
■赤穂市立歴史博物館
入場料=200円
開館時間=9時半〜17時(受付は16時半)
休館日=火曜(祝日の場合翌日)、年末年始
駐車場=無料           (2005.12.28現在)
住所=赤穂市上仮屋1424-1
山陽自動車道 赤穂I.Cを下りて左。 ずっと走って行き看板を左折。また看板を、 しおみラインへ右折。少しすると横に見えてきて右折。 (この時、左に見落としそうな看板があるが、 建物の所を右折すると考えたほうがいいかも。) 道なりに走ると東駐車場。

赤穂城
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から 入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に13年に亘る歳月を費やし、 寛文元年(1661)に完成した。 城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、 二の丸と三の丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい 変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、 曲輪の延長は約2,847m、面積は63,711uに及んでいる。 塁石、防壁、諸門、本丸御殿が整えられ、居城としての偉容が示されたが、 天守台のみ築かれて、天守閣は構築されなかった。 築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は 永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され 屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は 大名庭園がよみがえっている。 (赤穂義士会の案内板より)
赤穂城の地図いろいろ (1番右以外の写真をクリック→拡大) ※左2枚が同じ案内板
赤穂市立歴史博物館 赤穂市立歴史博物館の裏側 米蔵跡
■米蔵跡…清水門の門前、熊見川沿いに米蔵・薬煙場・番所等があった。米蔵の一部は昭和62年(1987)に 発掘調査された。米蔵のあった場所には現在赤穂市立歴史博物館がある。 (標柱より)
  米蔵跡だけに、意識した形なのかな?なんだかきれい(^^)
清水門跡
この門は幅二間二歩、奥行七尺七寸、建坪四坪のもので、 「赤穂城引渡一件」文書では、川口門ともいわれた。 門を出ると板橋があり、附近には蔵屋敷(米蔵)、川口番所、 御薬煙場があった。門の内側には、敵兵の直進を防ぐ為に蔀が備えられ、 また、門の南の石塁と二之丸東北櫓との間の二之丸堀には、 六間一尺五寸の柵も設けられていた。 なおこの門は、開城後の大石内蔵助が元禄14年(1701)4月19日に、幕府へ 城明渡しの後、名残を惜しみつつ退城したことで有名な門である。 (赤穂義士会の案内板より)
外堀(遠くに東隅櫓台) 東隅櫓台(二重櫓)
■東隅櫓台… 清水門の北方、大手門との間の城壁が鈍角に折れる隅角にあたり、 往時は二重櫓が存在した。現在も櫓台上には自然石を用いた 礎石が残されている。(標柱より)
青空と外堀の色や石垣がいい感じ(^^) 時間が違うと、青と緑だ。
二の丸の東北隅櫓跡(二重櫓)
二の丸の東北隅角に当たり、かつてはこの上に二重櫓があった。櫓台の石垣は 明治25年(1892)に洪水の災害復旧時の資材として持ち去られたが、 平成8年(1996)に櫓台の石垣が復元された。(標柱より)
(↑上は)清水門跡から見たもので、
(←左は)二の丸側から。ちょこっと石垣が見える(^^)
武家屋敷公園
元禄15年(1702)の赤穂城内侍屋敷図によれば、家老格の重臣の屋敷は、 城の重要な門の近くに配置されていた。城の守りの為に、重臣たちに それぞれの門の警護を受け持たせていたのである。 ここは、清水のおさえとして、坂田式右衛門(800石・組外・準家老格)の 屋敷があった所である。この武家屋敷公園は、総面積2,800u、屋形は 345uで、武家門、築地塀井戸屋形、杉皮茸あずまやを配し、江戸時代の武家屋敷の 様子を表現している。(赤穂市教育委員会の案内板より)
山鹿素行先生銅像
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622〜85)は、承応元年(1652) から万治3年(1660)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、 承応2年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張を一部変更し、 家中に兵法を指南した。 その後、寛文5年(1665)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、 翌年から延宝3年(1675)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老大石頼母助(たのものすけ)邸の 一隅に謫居(たっきょ)した。 配流中は、藩主や重臣のもてなしを受ける事も多く、この間に「四書句読大全」 「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、素行の学問を代表する 大著を完成している。大正14年(1925)、謫居跡に建立された 銅像は、平成10年に赤穂城跡公園整備の為現位置に移転した。 (赤穂義士会の案内板より)
二の丸外堀 大石頼母屋敷跡
二の丸と三の丸の間にある堀で、東は清水門側で熊見川に、西は西中門の 先で海に開放し、それぞれの開放部には柵状の施設を設けて船や塵芥の 侵入を防いでいた。(標柱より) 大石頼母助良重は大石内蔵助良雄の実の大叔父で、二の丸に屋敷を構えていた。 山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余りの 謫居生活を過ごした。(標柱より)
この先、少しずつ変わってくるんだろうな。楽しみ(^^)
二の丸門跡
ここは二の丸門のあった場所である。浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が 承応2年に赤穂へ来て、虎口の縄張の一部を変更した事で知られている。 赤穂城二の丸の面積は17,259坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、 高さ二間、建坪九坪の大きさであった。 また、文久2年(1862)12月9日に、赤穂藩主森家の国家老主税が、藩政に対して 意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。 いわゆる「文久事件」である。 この事件は、明治4年(1871)2月の、日本最後の仇討ち「高野の仇討ち」 (和歌山県高野山)の導火線ともなった。 (赤穂義士会の案内板より)  (右=取壊し以前/明治10年頃の撮影・赤穂市教育委員会の案内板より)
国史跡赤穂城跡本丸門(復元)
本丸門は築城時(17世紀中頃)の構造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間 存続していた。現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、 全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に 完成したものである。この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする 文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して、赤穂産の花崗岩による桝形石垣、 国産材を使用して、昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせている。 (赤穂市教育委員会の案内板より)
本丸門から東北隅櫓台を見る 本丸門から西北横矢桝形を見る
本丸跡&赤穂城跡の石碑 本丸と二の丸の間の塀

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