【赤穂城 その4】

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■赤穂城の藩士達の屋敷跡
車で走っている時、赤穂城を散策している時に、 行き当たりばったりで見つけた屋敷跡。 赤穂市のHPによると、赤穂市街に屋敷があったと 判明している義士は21名。(2006.12月現在) ちなみに跡には、石碑と説明板がそれぞれ立っている らしいので、探してみるのも楽しいかも。 今回は、その21名の屋敷の数に、入るものや入らないものも、 折角なので集めてみた(^^) ※UP数は14軒。


■大石邸長屋門
この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年に亘り 住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約26.8m、奥行約4.8mの建物で、 屋根瓦には双ツ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、 内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かつては、内蔵助と 主税の父子が朝夕出入りし、又元禄14年3月主君の刃傷による 江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。 安政3年(1856)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。 更に昭和37年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和52年11月から 国、県及び市の負担により、総工費3,138万余円をかけて前面解体修理を 行い、昭和53年10月末に復元完了した。(赤穂義士会の案内板より)

■近藤源八宅跡長屋門
近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。 源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係に あったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎 左衛門正純も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の 縄張り設計を行った。 近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している 建物は長屋門の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいに あったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として 使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の 一部屋が残されている。この長屋門は、18世紀以降に建て替えられたものと 推察されるが、当時は総長二十一間半(約42.3m)の長大な長屋門であった。 城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡 長屋門のみであり、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、 平成11年3月に解体復元整備が完了した。入口部分の土間は、炊事場で あったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを 偲ばせている。また、簣子野地天井は建築当時の姿を保っており、 屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し枡とともに人気が高い。 (赤穂市教育委員会の案内板より)

■奥野将監定良(おくのしょうげんさだよし)屋敷跡


大石内蔵助良雄(おおおいし くらのすけよしたか)とは親戚筋になり、 内蔵助を補佐し仇討ちの中心人物となるが、主眼は仇討ちより浅野家再興にあった。
元禄15年(1702)7月28日の討ち入りを決定する円山会議(京都安養寺塔頭、 重阿弥)に欠席し、数日後脱盟し討ち入りには参加しなかった。 屋敷は清水門をくぐり左手にあり、表口三十二間程(約58.2m)、 奥行三十五間程(約63.3m)の広さをもち、大石内蔵助宅程度の長屋門があった。 (赤穂市教育委員会の案内板より)

■大野九郎兵衛宅跡

大野九郎兵衛知房は、赤穂浅野家家老の1人で禄高は650石であった。 経済手腕を認められて召し抱えられたといわれている。 元禄14年(1701)3月、浅野長矩の殿中刃傷事件の後、筆頭家老 大石内蔵助や足軽頭原惣右衛門らと意見を異にし、赤穂城開城前の 4月12日に夜陰にまぎれて赤穂から出奔した。 大石内蔵助らが討入りに失敗した場合の第二陣として備えていたという 伝承もあり、その墓碑と称するものが全国に数ヶ所ある。 しかし実際には京都付近で世を去り、黒谷に葬られたという。 ちなみに、仮名手本忠臣蔵では九郎兵衛を斧九太夫に、 忰(せがれ)、郡右衛門を定九郎に擬している。 (赤穂義士会の案内板より)

■間瀬久太夫正明宅跡
久太夫は、大石内蔵助とともに重職義士5人のうちの1人である。 藩士たちの行動の理非を糺(ただ)し取り締まる大目付であったので、 非常に厳格正直な人柄であったと伝えられる。 小野寺十内とは従兄弟、中村勘助の叔父にあたり、嫡子の孫九郎と、 吉良邸に討ち入った父子組の1人である。 城明け渡しの時には、内蔵助を助けて収城使との折衝にあたり、 開城後も引き続き残務整理にあたるなど、内蔵助が頼みとしていた長老の 1人であり、内蔵助のよき相談相手だった。元禄15年(1702)7月28日、 京都円山で会議が持たれ、討入りが決議されたが、この席上、日頃寡黙な 久太夫が自ら進んで意見を述べ内蔵助の決断を促したと伝えられている。 討入りの時には、原惣右衛門とともに内蔵助の傍らにあって司令部を構成、 半弓を携え表門内を守ったという。細川家にお預けの後、本庄喜助の介錯で 切腹した。(赤穂義士会の案内板より)

■田中貞四郎屋敷跡
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の側近、主君内匠頭の 遺骸を引き取って、田村邸から高輪泉岳寺まで見送った6人の藩士の1人。 藩主内匠頭の用人である片岡源五右衛門高房らとともに髻(もとどり)を 切り落として、主君への殉死の意を示すと共に吉良上野介義央への 復讐を誓った家臣である。初め討入りの企てに加盟していたが、直前の 元禄15年(1702)11月7日になって脱落した。江戸における代え名は、 田中玄四。屋敷は塩屋門を入り左手の間瀬久太夫宅東隣にあり、 表口十四間程(約25.4m)、奥行十七間半程(約31.8m)の広さであった。 (赤穂市教育委員会の案内板より)

■神尾専右衛門屋敷跡
素性は不明で、元禄15年(1702)11月4日に赤穂城の在番であった龍野藩主脇坂 淡路守安照(受城使)が永井伊賀守直敬(浅野家断絶後の藩主)に渡した 「赤穂城内侍屋敷間数図」しかわからず詳細は不詳である。 なお、神尾専右衛門は、元禄13年2月27日付けの浅野家分限帳に神尾弥左(右)衛門 (高瀬運上奉行、十分横目、七両三人)が見受けられるが、城内屋敷地は重臣宅が 多く、同一人物かどうか疑問が残る。屋敷は塩屋門を入り右手側にあり、 表口十四間程(約25.4m)、奥行二十四間程(約43.6m)の広さで、他に菅仙右衛門 (250石、札座奉行、奥野将監組)や磯貝十郎左衛門正久(150石、用人)屋敷と 記された絵図もある。(赤穂市教育委員会の案内板より)

■磯貝十郎左衛門正久屋敷跡
十郎左衛門は、旗本松平隼人正の家臣、磯貝権左衛門の三男として江戸で生まれた。 生まれついての美男子で、幼い頃から能や琴などの遊芸に優れ、ことに鼓の 妙手であったという。 京都愛宕山教学院の稚児小姓となっていたが、14歳の時、父権左衛門と懇意であった 堀部弥兵衛の推挙で、浅野内匠頭長矩公の小姓となった。長矩公は、この聡明な 美少年をことのほか寵愛したという。十郎左衛門は、次第に重用されて10年の間に、 物頭にまで進み、150石を給されるまでになる。この間、児小姓頭であった片岡 源五右衛門とは、特に親しく、年齢の差を越えて刎頚の交わりをしたと伝えられ、 元禄14年(1701)3月14日の内匠頭切腹以後、常に源五右衛門と行動を共にした。 討入りの時は、裏門組に属し、手槍を揮って活躍した。 細川家にお預けの後、吉富五左衛門の介錯で切腹したが、遺品の中に、 紫縮緬(ちりめん)の袱紗に包まれた琴の爪が1つあったという。 (赤穂義士会の案内板より)

■寺井玄渓屋敷跡

元禄13年(1700)京都で町医者をしている時、浅野内匠頭長矩に見出され、 藩医として召し抱えられる。元禄14年(1701)3月14日の刃傷時は2年足らずの新参家臣で あったが、大石内蔵助良雄とは意を同じく討入りの企てに参画をし、再び京都で 町医を開業した。元禄15年(1702)7月28日の円山会議で決定した江戸への下向は、 息子玄達を同行させた。吉良邸討入りの前後、赤穂義士とも親交が厚かったせいか、 手紙のやり取りが多く残されている。 屋敷は、表口十四間程(約25.4m)、奥行十九間半程(約35.4m)の広さであった。 また、この地とは別に間瀬久太夫宅とお互い入れ代わった絵図や刈部弥二郎宅と 記された絵図もある。(赤穂市教育委員会の案内板より)

■鈴田(木)重八屋敷跡



初め討入りの企てに加盟し、元禄15年(1702)10月晦日に江戸下向したが、 11月2日には脱落した。江戸における替え名は玉野平八。
屋敷は、東隣に片岡源五右衛門宅、西隣に田中定四郎宅に挟まれ 表口十六間程(約20.1m)、奥行十八間程(約32.7m)の広さであった。 (赤穂市教育委員会の案内板より)

■片岡源五右衛門高房宅跡
源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された 寵臣であった。出世加増の少ない元禄時代に、初め100石であった俸禄が、 19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699)正月には、32歳で350石を給せられている。 元禄14年(1701)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は 下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、 藩邸留守居の諸士に大事を伝え、事態の収拾にあたった。 田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、 主従は共に声なく今生の別れを惜しんだのであった。 討入りの時は表門隊に属し、冨森助右衛門、武林唯七と3人組合って、真っ先き かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字鎗を揮って戦った。 細川家にお預けの後、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹した。 (赤穂義士会の案内板より)

■岡野金右衛門包秀(おかのきんうえもんかねひで)宅跡
父金右衛門包住は、小野寺十内の弟であり、岡野家の養子となり家督を嗣いでいた。 城明け渡し後も、大石内蔵助に賛同していたが重病となり、元禄15年の秋に死去した。 嫡男九十郎はその時江戸で中村勘助、堀部安兵衛らと行動を共にしていたが、 九十郎を改め二代目金右衛門包秀を名乗った。 志操堅固で、伯父小野寺十内、従弟大高源五はもとより原惣右衛門らの信頼も厚かった。 12月14日には、表門より攻め入り、十文字槍の達人であったから屋外で多勢の敵を 突き伏せ存分に働いたと、伯父の十内が妻の丹女に宛てた手紙に書いている。 金右衛門は、俳句もなかなか巧みで、放水の稚号で秀句を残している。
       『その匂ひ 雪のあしたの 野梅かな(辞世の句)』
(赤穂義士会の案内板より)

■間 喜兵衛光延(はざまきへえみつのぶ)宅跡
間 喜兵衛は、父の代から浅野家に仕えた譜代の臣である。 父は山鹿素行の高弟で、喜兵衛も山鹿流兵学を学んだ。 喜兵衛は、信仰心も深く、文武両道に秀でた無口で温厚な人柄であった。 最初から義盟に加わっており、内蔵助の命令に黙って従うという態度であった。 四十七義士の中では堀部弥兵衛に次ぐ高齢であったが、討入り時には、 吉田忠左衛門・小野寺十内と共に大石主税を援けて裏門司令部を守り、 逃亡してくる敵を突き伏せるなど立派な働きをしている。 吉良邸討入りには、長男十次郎・次男新六も加わっており、親子3人も 揃っていたのはこの間 喜兵衛の一家だけである。 討入り後は、細川家へ喜兵衛、水野家へ長男十次郎、毛利家へ次男新六というように 別々に預けられ最後を迎えた。2月4日、切腹の時、堀内伝右衛門に遺言を 訊ねられたが、
        『草枕むすぶ仮ねの夢さめて 常夜にかえる春のあけぼの』     という一首の歌を渡したという。
(赤穂義士会の案内板より)

■中村勘助正辰(なかむらかんすけまさとき)宅跡
中村勘助は、奥州白川藩の松平大和守の家臣・三田村小太夫の次男であるが、 赤穂藩士・中村庄助の娘婿となって中村家を継いだ。 勘助は、文書・書道に秀でていたから祐筆として務め、開城後は大石内蔵助 の代筆もしている。
内匠頭切腹の時は赤穂にいたが直ちに義盟に加わり、 開城後は大坂に出て原惣右衛門や潮田又之丞らとともに「上方急進派」の 1人となって活躍した。 妻子を生まれ故郷の甥に預けて、江戸入りした後は新麹町に間瀬久太夫・岡島 八十右衛門らと同居した。討入りの時は、裏門隊に属し、千馬三郎兵衛ら11人で 屋外にあって吉良方と戦った。のち松平隠岐守の中屋敷へお預けとなり、 元禄16年2月4日切腹した。(赤穂義士会の案内板より)

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