【姫路城 その1】

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兵庫県 姫路城 ひょうごけん ひめじじょう
■姫路城(別名=白鷺城)
入城料金=大人600円
入城時間=9時〜16時(閉門17時)
(5月〜8月) 9時〜17時(閉門18時)
休城日 =12/29〜12/31
駐車場=近辺の有料駐車場(多々あり)
大手門駐車場他、地下駐車場も有(2007.8.11現在)    
住所=兵庫県姫路市本町68番地
この時は、第二神明〜国道2号の姫路バイパスを走ったので、 姫路東ICで下りて、右の御着方面(2号方面)の国道312号へ。 高架をくぐって、少しして御国野で国道2号へ左折。 城の案内板が出て、下寺町信号で国道372号へ右折。 少しして壱丁町信号を左へ。その先を進んで行くと、 右側に姫路城。姫路城前信号を過ぎて、少しすると左に有料駐車場あり。

姫路城 (案内板の写真をクリック→拡大)
播州平野の中心、姫山の上に白い高雅な姿を見せて姫路城が聳える。 白鷺の飛び立つ様に似て白鷺城とも呼ばれる。
姫路城の歴史は、播磨の守護職赤松則村が、護良親王の令旨を奉じ、 北条氏討伐の兵を挙げて、元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範 が正平元年(1346)に城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が據 っていた。(最近の研究によれば、赤松築城説を否定し、 築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆父子以前にはさかのぼれないとする 説が出されている。) その後、黒田官兵衛孝高の時、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年 (1580)毛利氏攻略の根拠地として入城し、翌天正9年(1581) 3層の天守を築いた。 その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の役後、徳川家康の女婿 池田輝政(52万石)が入封し、慶長6年(1601)から8年の歳月を費やして 南の外濠を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、 姫山に5層7階の天守を築いた。 これは西国にある豊臣恩顧の諸将に対峙する西国探題職として、 家康がこのように大規模な城を築かせたのである。 そして、池田氏3代の後入封した 本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、 化粧櫓や西の丸を築き、元和4年(1618)今日に見る姫路城の全容を整えた。 その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が寛延2年(1749)入封して 明治維新まで続いた。 明治初代、この城も廃棄される運命にあったが、陸軍省中村重遠大佐の 建言により保存された。そして、幸い太平洋戦争下の被爆も免れた。 昭和6年(1931)には、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守と これを結ぶ4棟の渡櫓が国宝に、それ以外の建造物74棟の建物が、 重要文化財に指定され、昭和31年(1956)中濠以内107haが特別史跡に 指定された。また、平成5年(1993)12月、日本で初の世界遺産に 登録された。(案内板より・絵図も)
   (左=左より乾小天守、西小天守、奥=大天守。  右=三国堀から天守群。)
天守と桜門橋と石碑
■姫路城大手門と桜門橋…
姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、 城内では最も格調高くかつ厳重な門だった。 現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は、 昭和13年(1938)に完成したもので、位置や大きさは 江戸時代のものとは全く異なっている。 また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていた。 今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を 活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして 平成19年(2007)に築いたものである。 (案内板より)
桜門橋 内堀と三の丸の石垣(左=武蔵野御殿跡)
反対側には、お土産屋さんやお食事処が建ち並んでいるので、 見学の前の腹ごしらえが出来てよかった(^^)
天守と姫路城碑 大手門
ドーンと大天守(^^)城址碑と一緒に。この大手門は、 上で紹介したように、昭和のもので、形も位置も違うもの。
大手門横の三の丸石垣 三の丸(向屋敷跡) 姫路城石碑(2003.8.10撮影)
お盆休み&お昼だけあって、姫路城石碑の周りには人がいっぱい!! さすがに写せなかったので、以前のものを。
三の丸(武蔵野御殿跡)
姫路城第21代城主本多忠政の嫡子忠刻、千姫夫妻が住まいしたこの御殿は、 伏見城から移されたもので、桃山時代の美術の粋を極め、建物の戸、 襖は全て金箔で「すすき」の絵が描かれていたところから、武蔵野御殿 の名で呼ばれていた。この華美を極めた建物も、忠刻の死後、千姫が 徳川家に戻ってからは住む人も無く、荒れるにまかせ、自然破損の状態となり、 宝永時代(1704〜1710)までは、その旧跡も認められたといわれるが、 今ではその面影を見ることはできない。(案内板より)
 (写真右奥に写るこんもりした部分は、 右下の写真部分。少し崩れ気味。)
三の丸(本城跡) 三の丸(本城跡)の土塁類
武蔵野御殿跡から一段高くなっている本城跡へ上がると、 周りにこんな土塁&石垣が。今は、千姫ぼたん園。
三の丸(本城跡)から内堀 三の丸(本城跡)の土塁 西の丸の遠景(2003.8.10撮影)
(真ん中)土塁の高さから本城跡が高い位置なのが分かる。 (右)西の丸を。新しく写すのを忘れてしまった…(^^;)
旧西大柱
ここに展示しているのは旧西大柱で、この柱は、かつて 大天守の地階床から六階床までの各階を、もう1本の 東大柱とともに些(いささ)かの躊躇いもなく力強く貫き通し、 1本が100tもの重量を支えて350年もの長きに亘り、 大天守を守り続けてきた。 然しその間、両大柱とも明暦2年(1656)(城主 榊原忠次)に、 柱や土台などの腐朽で、床面に高低が生じ、このため大柱の 根元を高さ2.4m、柱四面の間仕切り部分を刳(く)り抜き、ここに 幅36cmの奥行もほぼ同じ大きさの栂(つが)の角材を挿入し、 帯鉄巻き鋲釘止めで固定するという補強工事が行われた。 その後、貞享4年(1684)には、先の明暦2年に行われた 修理材の上に補強材を加える工事が行われた。 このように築城後、350年を大天守と共に歩んできた西大柱が、 昭和大修理(昭和31年〜39年)で、柱真に腐れの あることが分かり、取換えを余儀なくされ、新しい柱に後事を 託して、今ここに創建材の資料として展示している。 (案内板より)
天守群(右=2003.8.10撮影)
(左)青空に白壁が映えて素敵!!! (右)姫路城石碑付近からだとこんな感じ。ちなみに、この時は夕方撮影。

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