【高遠城 その3】

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問屋門
幕政時代に主に街道には宿駅を定め、問屋と称する 人馬伝送宿泊を始め、交通上の駅務をとる役人をおいた。 高遠の問屋は、2人の名主との合議によって町政にも 参与していた。 この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門で、 昭和23年ここに移したのである。 門前の橋下に本丸側の石垣や門を入った左側の石積みや土手は、 大体往時の形を存している。(案内板より)
(左&真ん中)表&裏。 (右)門と橋と桜(≧▽≦)埋もれすぎ?  (2枚=2005.9.18、右=2009.4.12撮影)
二の丸と本丸との堀
(左)桜雲橋下には池が。こちらは南側。 (2枚)桜雲橋から。なんだかよく分からない…。(2009.4.12撮影)
本丸
高遠城は天文16年(1547)武田信玄が、山本勘助、秋山信友の 名将に命じて築かせた城で所堅固なる三重式の城郭である。 天正10年(1582)城主仁科五郎盛信(信盛ともいう)が、5万3千の織田軍に 攻められ、3千の城兵でよくこれを守り、壮烈なる戦死を遂げたのはこの本丸である。 その後、保科氏・鳥居氏と城主が替わり、元禄4年(1691)から 明治4年まで180年間、内藤氏8代にわたって城主であった。 江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、 平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。 本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、 廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に 移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠る この地に散華となって降り注いでいる。 (案内板より)
  (左下)桜がツボミだから、よく見渡せる。(2009.4.5撮影) (真ん中)新城藤原神社付近の枝垂れ桜。
凄くきれいだった〜♪ (右下)本丸から勘助曲輪を。 (他=2009.4.12撮影)
古戦場跡(高遠城の戦い)
天正10年(1582)2月、織田信長は信玄亡き後の武田氏を一挙に滅ぼす為に、 伊那口からは長男信忠の率いる5万の兵を送り込んだ。 この大軍に怖れをなした伊那谷の城主は、城を捨てて逃げ、 或いは降伏して道案内をする等、織田軍は刃に血塗らずして 高遠に迫った。 26歳の青年城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を 勧める僧の耳を切り落として追い返して、3千の手兵をもって敢然として、 この大軍を迎え撃った。 要塞堅固を以って響いた城であり、城主盛信以下将兵の決死の奮戦も、 17倍の兵力の前にはいかんともなし難く、3千の兵はことごとく 討死した。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけたと 古書は伝えている。 武田勝頼は諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害し、 高遠城の戦いは武田氏滅亡の最期の華々しい、そして 悲しい戦いの場となった。 (案内板より)
(左)問屋門手前。('09.4.5撮影) (右)反対側にも石垣と土塁。('09.4.12撮影)
コヒガンサクラ
このサクラは、旧藩時代「サクラの馬場」の並木となっていたものである。 明治5年(1872)大きいものは切られたが、明治8年(1875) 第1回移植が行われた。その後幾度か補植され今日に至っている。 いずれも同一種類のものの補植に限られた。 現在は50年以上の老樹230本余、30年以上のもの260本、 このほかに若木を交えて800本ある。すべてコヒガンサクラである。 このように、老樹を交えたしかも純粋に一種類だけの樹林は数が少ない。 (案内板より)
(2009.4.12撮影)
太鼓櫓
ポスターでもよく見かける満開の桜と太鼓櫓。本当に素敵!! なんだかくすぐったそう〜(^^) (2009.4.12撮影)
江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。 鼓楼は搦手門の傍らにあって、楼上に三鼓を備え、 常に番人を置いていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、 時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。 廃城の際、有志によって対岸の白山(はくさん)に鼓楼が 新設されて時を報じていたが、明治10年(1877)頃に本丸、 西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝6時から夕6時まで偶数 時を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。 戦後、太鼓は三の丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、 終了を知らせていたが、現在は、高遠町歴史博物館に 展示されている。(案内板より)
周りに葉っぱが無いとすっきり。
でも、寒々しいな。(2009.4.5撮影)
以前は上がれたのに、立ち入り禁止になってた…。この時の眺望は、
葉っぱが生い茂った木ばかりだったんだけどね…(^^;)(2005.9.18撮影)
笹曲輪
本丸南西。本丸から見下ろして。
こじんまり。(2009.4.5撮影)
笹曲輪から石垣上の太鼓櫓♪
緑の中の姿、素敵!('05.9.18撮影)
桜の時期は、凄〜くねばっても、
人が入ってしまう…。(2009.4.12撮影)
本丸と南曲輪の間の橋&空堀
(左)南曲輪の説明では、本丸と南曲輪は堀内道でつながっていて、
土橋は記念碑を建てる時に作られたんだとか。 (2005.9.18撮影)
(左下)本丸と南曲輪の間の橋から、南曲輪の北東側。(2005.9.18撮影)
(下真ん中)本丸と南曲輪の間の橋から、南曲輪の北西側(笹曲輪方面)。
空堀見るのは何も無い時が1番だな〜(^^) (2009.4.5撮影)
(右下)春の本丸と南曲輪の間の橋から、南曲輪の北西側(笹曲輪方面)を。
満開の桜が、空堀を包むように咲いていてきれい!(2009.4.12撮影)
南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、 母お静の方と居住した所と言われている。 形状は方形をなし、本丸とは堀内道(ほりないみち)、二の丸 とは土橋でつながっていた。 本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の 隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。 また、明治30年(1897)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地 であったが、靖国招魂碑を建てるにあたり、地を削り広めて 平地に整備したといわれている。 (案内板より)
(左)南曲輪から白兔橋方面を。(2009.4.5撮影)  (右)桜♪(2009.4.12撮影)
白兔(はくと)橋
文政の頃、高遠町の酒造業広瀬次郎左衛門という人があった。 その号を白兔と称し、和歌・狂歌などが得意であった。 文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押し寄せた 百姓に与え、大事に至らずしてすんだ。その他、多町に通ずる弁財天橋を 自費で修理するなど公共のために、盡力した。その孫省三郎は 私有地だった旧高遠城の法幢院曲輪を買い上げそれを公園として寄附した。 その時、この橋を造り、祖父の俳号にちなみ「白兔橋」と名付けられたものである。 (案内板より)
 (左)南曲輪(手前)から白兔橋を渡って、法幢院曲輪へ。 (真ん中)逆から。 (右)空堀から。(2005.9.18撮影)

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