【高遠城 その4】

・・・高遠城は5ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】 【4】 【5】  ■次へ→ ■ or ■ ←モドル

南曲輪と法幢院曲輪との空堀
深い空堀。民族大移動を思わせる
ような白兔橋。。(2009.4.12撮影)
白兔橋から。朝の光が木々から
漏れて素敵(^^) (2005.9.18撮影)
白兔橋から東側を。この時は、中央
アルプスが見えず。(2009.4.5撮影)
法幢院(ほうどういん)曲輪
二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、 曲輪の東方には幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。 かつて、ここには法幢院と言うお寺があり、高遠城落城の 際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、 一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山の麓の 龍ケ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。 この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、 桜の時は残雪が、紅葉の時は新雪が目にも清かに映る。 (案内板より)
 (真ん中)南側にも堀が残る♪(右)二の丸と法幢院曲輪(右側)との空堀。  (左=2005.9.18。他=2009.4.12撮影)
白兔橋付近から薄っすらと見えた白い中央アルプス。 全部、雲じゃないのだ。(2009.4.12撮影)
南ゲート
(上3枚)「つぼみ」の状態で、
ここが1番咲いていたんだ〜♪
(2009.4.5撮影)

(左&右)1週間後には満開!!
凄くきれいだった〜(≧▽≦)
(2009.4.12撮影)
信州高遠美術館&横の謎の建物
信州高遠美術館の所のトイレは、
トイレっぽく無い外観(笑)丁度、
草刈中で、ゆっくり出来たんだ♪
ブロック上の櫓は、城址公園も
美術館も関係無いみたい(^^;)
(左&右=2005.9.18.撮影)
完璧にお城!素敵に見える(笑)
(左下&下真ん中='09.4.12撮影)
桜はツボミ。(右下='09.4.5撮影)
白山橋&三峰川
信州高遠美術館の近くの階段を(あやしい城の付近) 下りると、白山橋方面へ。 (右=2005.9.18、他=2009.4.5撮影)
高遠湖&高遠町歴史博物館
(左&真ん中)高遠湖。奥に見えるは、 高遠町歴史博物館(右の写真も)。  (右=2005.9.18。他=2009.4.5撮影)
この近くに、保科正之公の像とお静顕彰碑、お静地蔵があるんだけど、 レプリカと分かっていても写せなかった(^^;)
(左)高遠湖ダム。 (真ん中)皆お日様に向かってた咲いていたコスモス。(^^)  (2枚=2005.9.18。右=2009.4.5撮影)
絵島囲み屋敷
「浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光の かげもはづかし」
絵島が、江戸を離れる時詠んだといわれるこの歌を残して、 正徳4年(1714)3月、遠流の刑となった幕府大奥の 大年寄絵島は、春まだ浅い高遠に護送されてきた。 絵島が暮らした八畳の部屋は、周囲が全て開く事のできない はめ込みの格子が入り、屋敷を囲む塀には「忍び返し」が 付けられた物々しい造りであった。
大年寄という高い位置にまで上った絵島であったが、 徳川幕府の安泰を願う封建の世に、政権争奪の犠牲とも 思える罪に問われて、栄華と権力の社会から一朝にして 蹴落とされ、33歳の女ざかりに一生許されぬ遠流の刑に 処せられた。山国高遠で28年の幽閉生活に耐え、 日蓮宗に帰依し、ひたすら御仏の懐に抱かれるような 信仰の毎日であったが、寛保元年(1741)4月、 病の為波乱に富んだ61年の生涯を閉じた。 (案内板より)

(左)間取図(享保の古図)。 (右)物語まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつな里  十月亭(有島生馬の俳号) (左下)入口。(下真ん中)こじんまりした絵島囲み屋敷。 (右下)忍び返し!?厳重! (絵島囲み屋敷=2009.4.5撮影)
(左)玄関。奥が台所。 (真ん中)左が絵島の間で、右側が下女詰所。 (右)絵島の間。机の上には花が飾られてた。
三峰川
高遠城付近の駐車場へ向かおうと思ったけど、道路が規制されていて 近寄れず…。恐るべし!花見の時期!
というわけで、少し離れた川沿いの無料駐車場に…。 おかげで、こんなにきれいな景色が♪(2009.4.12撮影)

・・・高遠城は5ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】 【4】 【5】  ■次へ→ ■ or ■ ←モドル

【 長野のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る