トロとまったり・tripのページ(玖島城(大村城) その1)

長崎県 玖島城

ながさきけん くしまじょう

■玖島城(別名=大村城)=見学自由
■大村公園
駐車場=無料駐車場(多々あり)

2010/5/3現在

住所=大村市玖島1丁目
この時は、国道34号を南下し、市役所前信号を右折。 左側の観光センター(売店)前の駐車場を利用した。他にも、多々あり。

玖島城(大村城)

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玖島城は、慶長4年(1599)第19代当主大村喜前(よしあき)が築いてから、 第30代純熈(すみひろ)幕末に至るまで、12代約270年に亘って、大村藩2万7千石の居城であった。 喜前は、豊臣秀吉の死後、天下が再び乱れることを恐れて、慶長の役で朝鮮へ出陣した時、 海辺にある城は守りに強いという教訓を生かし、玖島の地を選んで城を築いた。 玖島という名の通り、元は島で、今の国道側を埋め立てた。そして、三城からここに移った。 慶長19年(1614)第20代純頼(すみより)の時に 城の大改修を行ない、それまで城の北側にあった大手門を現在の南側(本小路側)に移され、今日に至っている。 この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されている。 城には天守閣はなく、館造りの建物であった。明治4年の廃藩置県で、大村県庁が置かれたが、 すぐに長崎県に合併された事により不要となり、建物は取り壊された。 その後、明治17年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っている。(大村市教育委員会の案内板より・絵図も)

おおむら
国道から(観光センター前)
花壇と駐車場

【左】大村に入ると、上方に天正遣欧少年使節がいる案内がある。 行きは通り過ぎて撮り損なった為、帰りに撮影!
【真ん中】国道側の観光センター&売店前。今回は、ここに駐車した。
【右】花壇越しに観光センター前の駐車場を。

桜田屋敷跡

昔、この一帯は黒石原という浜辺だったが、慶長4年(1599)玖島城を築く時に埋め立て、屋敷地として大村氏一族が居住していた。 寛文10年(1670)4代藩主大村純長(すみなが)はここに藩校集義館(しゅうぎかん)を建て、家臣の教育を行った。 この藩校設立は、全国で7番目、九州では最も古いもので、大村藩が教育を重視した事が分かる。 元禄7年(1694)にいは静寿園(せいじゅえん)と名を改め、また、寛政2年(1790)9代藩主純鎮(すみやす)の時に藩校を拡充し、 学問を教える五教館(ごこうかん)と武道を教える治振軒(じしんけん)をつくった。 天保2年(1831)10代藩主純昌(すみよし)の時に、本小路に移設した。 また、延宝年間(1673〜1681)この地に桜数百株などを植え、花林軒(かりんけん)と名付け、宴遊の地とした。 庭園は国道拡幅により、半分近くが消滅しているが、池の周りや築島を巡る形が残っており、江戸時代の大名庭園の様子を残している。 背後の築山は国指定名勝円融寺庭園に類似しており、主として青石を立てた手法で造られている。(大村市教育委員会の案内板より)

藤棚の裏
藤棚
大村連隊区司令部跡

【左】築島の名残り?
【真ん中&右】この辺りは、大村連隊区司令部跡らしい。この付近に、国道の東側入口がある。

国道の東側入口
駐車場
大手入口門跡

■大手入口門…慶長19年、20代藩主純頼が玖島城を改築した際、大手口を片町側よりこの地に移した。(大村市教育委員会の標柱より)

【左】観光センターを南下した所。内側が上で紹介した藤棚。
【2枚】東側から入ると、左に駐車場、右に大手入口門。

角堀跡(桜田の堀)

【左】南側から。とても素敵な堀だった♪
【真ん中】桜田橋。
【右】桜田屋敷跡方面。この石垣は昔のもの?

長堀&花菖蒲園

慶長19年(1614)玖島城を改修し、大手口を本小路口へ移した時にできたという。(大村市教育委員会の標柱より)

【右】長堀越しに板敷櫓。

二重馬場

大手入口門より大手口に通じる2本の道を言う。 一方の道は、荷物の運搬、騎兵隊の通行に、一方を歩行専用とした。(大村市教育委員会の標柱より)

【左】歴史公園・百選の地の碑。花菖蒲のイラストがちょこんと。
【右】この2本の道かな♪

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