トロとまったり・tripのページ(玖島城(大村城) その2)

南堀跡

慶長19年(1614)玖島城を改修し、大手口を本小路口へ移した時にできたという。(大村市教育委員会の標柱より)

【左】南堀と板敷櫓を。
【真ん中】板敷櫓から南堀を見下ろして。
【右】説明板も石垣と塀という心くすぐるデザイン。

大手門跡&土橋

玖島城の正門で、門櫓が作られ、厳重な扉で開閉していた。 大手門の前に土橋があった。(大村市教育委員会の標柱より)

【左】手前が土橋。
【右】穴門側から土橋。

【左】桝形。写真を右折れで穴門。写真を左折れに行くと二の丸へ。
【真ん中】正面の城址碑。
【右】左の写真を左へ、二の丸方面を。

穴門跡

大手門には当時、渡櫓が架けられていた。大手門をくぐると右側にある。(塀型の説明板より)

【左】斉藤歓之助の碑と穴門跡。

■斉藤歓之助の碑…斉藤歓之助は、幕末江戸の三剣客の1人、神道無念流斉藤弥九郎の三男として、天保3年(1832)江戸に生まれた。 斉藤弥九郎の道場は練兵館といい、江戸でも有名な道場だった。この門下には、長州の桂小五郎や大村藩の渡辺昇もいた。 歓之助は嘉永7年(1854)大村藩主純熈(すみひろ)に招かれて、俸禄百石を賜り、剣術師範役となった。(後に加増されて百五十石) 歓之助は、激しい稽古から鬼歓という仇名があるほどで、得意の突きは天下無敵といわれた。 幕末において、大村藩では一刀流、新陰流などが採用されていたが、実践に強い剣術を採用する事となり、神道無念流の歓之助が招かれた。 以後、藩内は神道無念流への入門が相次ぎ、歓之助の門弟は千人以上に達したといわれている。 道場は上小路下りの屋敷の中にあり「微神堂(びしんどう)」と称した。 この道場で学んだものが、戊辰の役で多く活躍したといわれている。 歓之助は、残念ながら若くして病気を患い、廃藩置県後、東京に移住し、明治31年(1898)66歳で亡くなった。 「微神堂」は、道場に掲げられた扁額が弟子によって受け継がれ、現在の杭出津の微神堂へとつながっている。 この碑は、柴江運八郎らの門弟が、師の功績を顕彰して建立したものである。(大村市教育委員会の案内板より)

【右】内側から。

二の丸方面の桝形

【左】大手門から左折れで、石段を上がって…。
【真ん中】次に右折れ。 【右】また右折れ、左折れ。

【左】右上の写真の左折れを。
【真ん中】二の丸から見下ろして。複雑、複雑(笑)
【右】二の丸から振り返って。

二の丸&台所門跡

藩主の住居を俗にお台所と呼び、その出入口にあった門を台所門と称した。(大村市教育委員会の標柱より)

手前が二の丸。【左以外】門の両側を。

【左】二の丸から本丸方面へ。
【真ん中】振り返って。こうやって、幾つも石垣が見えるのが好き。
【右】本丸から。

【左】右上の写真の右側。
【右】右上の写真の左側。こっちは、ちょっと崩れ気味。

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