トロとまったり・tripのページ(臼杵城 その2)

畳櫓

畳櫓は、桁行4間(7.92m)、針行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓である。 この櫓は、正保年間(1644〜1648)頃に建てられたのが始まりのようである。 宝暦13年(1763)の大火で焼失したが、その再建は明和年間(1764〜1772)頃ではないかと推定される。 畳櫓という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、 中に畳が敷かれていたからという説等があるが、はっきりした由来は不明である。 (臼杵市教育委員会の案内板より)

【左】中門側から。格好いい!
【真ん中】左側が大門櫓で、右側が畳櫓。素敵!
【右】大手門公園から。

【左】正面。左横が井楼櫓跡。
【真ん中】井楼櫓から見下ろして。
【右】畳櫓の鬼瓦。稲葉家の家紋「折敷に三文字」。

時鐘櫓跡

この時報楼の鐘は「原山時鐘」という。 鐘に刻まれた銘によると、元禄13年(1700)に鋳造されたとある。 その後、寛政2年(1790)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘(二王座)で、 時を告げていたものと記録に残っている。 明治6年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡・畳櫓横へ移され、 その後も昭和末期まで、鐘の音を聞く事が出来た。 しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり、鐘の音は途絶えたままとなっていた。 平成20年(2008)、臼杵城跡・西の丸の鐙坂の土塀復元に際し、 この鐘は畳櫓横から約140年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活する事はなかった。 そこで、平成22年(2010)6月、臼杵ロータリークラブは、創立50周年記念事業として、 鐘の音を復活する為、「時報楼」の整備を行った。(臼杵ロータリークラブ創立50周年記念碑より)

【左】鐙坂横上方の石垣が時鐘櫓跡。
【右】北側から。丁度、木で隠れ気味。

帯曲輪

大友氏時代から太田時代(1556〜1600)にかけて、臼杵城二の丸、本丸に入るには、 城下町に面した入口から鐙坂を通り、現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀に辿り着き、 そこから上がると言う大変遠回りをするコースをたどっていた。 稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、 新たに三の丸のやや奥まった部分に登城口を設け、二の丸へと上がる間に中の門、 上の門と呼ばれる門と桝形を造ると言う守りの堅い城内通路が整備された。 これによって、旧来の道は上の門を境に2つに分断され、 畳櫓から上の門に至る空間は帯のように細長いものであることから、帯曲輪と呼ばれるようになった。 また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂の登城口は、古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からである。 (臼杵市教育委員会の案内板より・絵図も)

【左】大門櫓前の帯曲輪と二の丸の石垣。
【真ん中】大門櫓前の帯曲輪には、稲葉貞通の石柱が立っていた。
【右】今橋(大門櫓から北側方面にある)から、帯曲輪を見上げて。ちょちょこと、石積みが見られた(^^)

大門櫓

大門櫓は、稲葉氏入城直後の17世紀初頭に建てられたもので、宝暦13年(1763)の大火で焼失した後、明和5年(1768)に再興され、 明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていた。 復元にあたっては、現存する二基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の成果などを参考にし、 楼門形式・2枚開戸・櫓部壁下見板張・入母屋屋根・塗込垂木など、廃城直前の形状で、この門の特徴である中央門柱後ろに控え柱を持たない独特の形状を再現している。 施工については、古建築の雰囲気を醸し出すよう、地元の職人が伝統的工法を駆使して、可能な限り江戸末期の姿となるよう努めた。(臼杵市教育委員会の碑より)

【左&真ん中】帯曲輪から。石垣の奥に引っ込んでいるので写し辛いけど、どっしりとして格好いい(^^)
【右】鬼瓦には、畳櫓と同様に、稲葉家の家紋「折敷に三文字」が(^^)

【左】二の丸側。
【真ん中】左の写真の右側の石段で、石段横は、会所櫓跡へ続いている。
【右】井楼櫓側から。

二の丸(西の丸)

江戸時代、空堀から西側一帯を二の丸あるいは西の丸と呼んでいた。 臼杵城は、大友宗麟によって建設されたが、その当時の二の丸の姿は明らかではない。 しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557)、天正16年(1588)の火災で焼けた土層が確認されたが、 天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明した。 また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器が出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺える。 大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城する。 これ以降、臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられる。 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた稲葉氏によって、 さらなる改修が実施される。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備された。 その後、延宝4年(1676)当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二の丸に御殿を移してからは、 こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用された。(臼杵市教育委員会の案内板より)

二の丸御殿

二の丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図から分かる。その空間は「表」と「奥」に分けられていた。 表空間は「大書院」「小書院」「御居間」などの大部屋が見える。これらは政務遂行や年中行事等の儀礼に使われた空間と考えられる。 「御居間」に近付くほど、より限られた身分の者しか出入りできなかったと考えられる。 奥空間には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋がある。藩主とその家族の日常生活の場である。 「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見える。御殿の奥には、池と築山、石の輪橋等を配した庭があった。 また、北側には「凌雲亭」と呼ばれる茶室が造られた時期もあった。(臼杵市教育委員会の案内板より)

井楼櫓跡

【左】畳櫓の左側の石垣が、井楼櫓。石段の上が大門櫓。
【真ん中】二の丸から井楼櫓。
【右】案内板よりかつての姿。

【左】井楼櫓上。眺望がいい♪
【右】下の写真の真ん中辺りの月桂寺と多福寺。石垣が素敵!

(パノラマっぽく加工)でも、左の建物の加工が失敗(^^;)

会所櫓跡

【左】こちらからだと、不思議な形。
【右】石段は幅が狭く、急だった!

【左】会所櫓に上がって…。
【真ん中】大門櫓方面。ぐに〜っとした曲線が好き。 大きな木の向こうが大門櫓。上り口は、大門櫓横と低い石段の所の2ヶ所だった。
【右】写真左奥が会所櫓の石垣。手前は二の丸の隅の石垣。

村瀬庄兵衛政績碑

この石碑は、天保2年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜擢され、 藩財政の建て直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものである。 この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建て直しを迫られていた時、 担当責任者として抜擢された庄兵衛が、「量入制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。 さらに、学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたこと等が記されている。(案内板より)

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