トロとまったり・tripのページ(彦根城 その9)

楽々園

(2003/12/28撮影)

旧藩主の下屋敷で、槻御殿のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。 往時には能舞台を備えた広大な建物であったが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。 戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。 また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものであろう。庭は枯山水で、布石の妙を極めている。 開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。(案内板より)

楽々園・槻(けやき)御殿

(2003/12/28撮影)

第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677)に着手、同年に完成。 下屋敷として築造され、木材は槻(けやき)でその華麗さは各大名も驚嘆した。 大老井伊直弼は、文化12年(1815)10月29日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋よりなり、 しばしば修理が加えられたが、往時の面影をとどめている。 第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804〜1817)に楽々之間を増築して以来、槻御殿の正式の名より楽々園の名の方が有名になった。 楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。(案内板より)

楽々園・地震の間

(2003/12/28撮影)

江戸時代には地震の時に逃げ込む為の部屋を作った例はいくつかあったらしいが、現存の物は殆ど無い。 この地震の間は、日常、御茶座敷として使用されていたが、構造の細部を総合的に見ると、 最初から耐震構造の意図のもとに計画されたことは間違いないと思われる。 人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており、柱が土台に固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。 更に、建物全体を軽快な数寄屋造とし、屋根を軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしている。 下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、基本的な耐震建築の様式を採用している。(案内板より)

玄宮園

城の北東にある池泉回遊式庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模して作られた縮景園。 第4代藩主井伊直興(なおおき)が延宝5年(1677)に造営した。(案内板より)

【左&右】素敵だなぁ(^^)(2006/4/30撮影)

【左&右】天守が見えた(^^)小さいけど、いいアングル♪ (2006/4/30撮影)

井伊直弼大老像

(2007/11/23撮影)

開国の英雄、井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父に死別し、 僅か300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青年時代を埋木舎で過ごし、専ら心身の修練につとめた。 ところが、思いがけなく嘉永3年(1850)、36歳の時、彦根藩主となり、安政5年(1858)大老職となった。 時に44歳。嘉永6年6月、アメリカのペリーが日本を訪れて開国を迫り、以来、鎖国か開国かと国内は非常に混乱した。 大老井伊直弼は、我国の将来を考えて、安政5年(1858)6月、開国を断行。これに調印し、外国と修交を結んだのである。 この大偉業を成し遂げた直弼も、大老の心情をくむことのできなかった人々によって、万延元年(1860)3月3日、 桜田門外で春雪を血に染めて消えた。時に、46歳であった。 この銅像は、井伊直弼が最後の官職であった正四位上左近近衛中将の正装をうつしたものである。(案内板より)

木々・井伊直弼の像付近

■二季咲桜(にきざきさくら)…昭和47年4月に、水戸市(友好都市)より寄贈されたもので、 冬(11月から1月)と春(4月から5月)の、年2回開花する。(案内板より)

【左&右】二季咲桜。秋なのに桜?と思ったら、二季も咲くんだとか!得した気分♪(2枚=2007/11/23撮影)

【左&右】とってもきれいな紅葉だった(≧▽≦)(2枚=2007/11/23撮影)

中濠 ・ 井伊直弼の像付近

【左】埋木舎方面を。(2007/11/23撮影)
【右】逆の北西側の石垣を。(2007/11/23撮影)

門跡

【2枚】位置は彦根城博物館(表御殿)の北東方面、井伊直弼の像付近から内堀の門跡。 左の写真だと門跡の手前に水堀があるけど、右の写真だとあるように見えなくて不思議な感じ。(2007/11/23撮影)

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