トロとまったり・tripのページ(徳島城 その1)

徳島県 徳島城

とくしまけん とくしまじょう

■徳島城=見学自由
■徳島中央公園
駐車場=近辺の有料駐車場
※徳島中央公園東側駐車場(有料)が近くて便利。

2007/4/30現在

住所=徳島市徳島町城内
この時は、神戸淡路鳴門自動車道 鳴門I.Cを下りて、 国道11号を徳島市方面へ進んで、吉野川大橋を渡って、 北常三島信号を過ぎて少し走ると、徳島中央公園の案内板が出るので、 それに従って右折。また案内板に従って、すぐの信号を左折。 少しして右に徳島中央公園東側駐車場&徳島中央公園がある。

徳島城

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徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1558〜1638)によって建設された。 築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力した。 徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城だった。 徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城だった。 藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく、麓の御殿だった。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、 重臣達の詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子供とその身の回りの世話をした女中達が住む「奥」に分かれていた。 「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができなかった。藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、 明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなった。 (案内板より・絵図も)

駐車場(北蔵跡)
遠景
助任川

【左】徳島公園のすぐ近くの便利な駐車場。でも、満車の可能性が高く、1度目は駅の東側の立体駐車場にとめた(^^;)
【真ん中】駐車場からの遠景。

北馬屋跡

【左】北馬屋跡。4月の下旬だけど、初夏を思わせるような陽気(^^)
【真ん中】公園の道(北馬屋跡)。
【右】隅櫓跡から。

【左&真ん中】北馬屋跡のバラ園。きれいに咲いていて、気持ちいい♪
【右】北馬屋跡横の池。

城山の海蝕痕・北馬屋跡横の池

前面の岩肌に残る大小の円形のくぼみは、海の波に浸食された跡である。 気候温暖化に伴う海面の上昇や陸地の沈降により、海水が内陸まで入り込んだいわゆる「海進」によるもので、 大規模な海進があった6千〜5千年前頃(縄文時代早〜前期)には、この辺りが海であったことがわかる。(徳島市教育委員会・徳島市文化財保勝会連絡協議会の案内板より)

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