トロとまったり・tripのページ(鳥取城 その1)

鳥取県 鳥取城

とっとりけん とっとりじょう

■鳥取城(久松公園)=見学自由
■仁風閣=150円
開館日=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=毎週月曜(祝日の場合、翌日)年末年始
駐車場=土・日曜、祝日はお堀端に、無料駐車スペース。 他、県庁や博物館等。
※2005/8/12では、満車で中学校に臨時があった。
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2009/8/9現在

住所=鳥取市東町
この時は、兵庫から国道9号を走り、湯山トンネル、覚寺トンネルを抜けて、 318号へ左折の看板に従い、318号と53号の交差点を53号へ左折。 材木町信号を過ぎて、案内板に従って左折。突き当たって、そこから見える久松山が鳥取城跡。 右折して、土・日曜、祝日の場合ならお堀端に駐車可能。

鳥取城

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■鳥取城跡附太閤ヶ平(とっとりじょうせきつけたりたいこうがなる)… 鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれた事に始まる。 以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。 このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。 このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。 鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移った。 この頃の鳥取城の中心は、山上ノ丸とそこから西方に延びる非常に急な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を平らに削った平坦な遺構が数多く残っている。 山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っている。本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・月見櫓等を設けていた。 天守櫓は元禄5年(1692)に落雷の為焼失してしまい、再建される事は無かったが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていた。 山上ノ丸には、本丸の他にも東側に二ノ丸、三ノ丸とよばれる曲輪があり、一段低い所に出丸が設けられている。 西の尾根を下ると鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松ノ丸などの曲輪が残されている。 なお、鳥取城は戦国時代の末に、織田氏と毛利氏の対立から二度にわたって、羽柴秀吉の攻撃を受けている。 特に天正9年(1581)の秀吉と鳥取城将・吉川経家との戦いは、「鳥取の渇え(かつえ)殺し」として知られ、 その時に秀吉が築いた陣跡が本陣山に残っており、太閤ヶ平として鳥取城跡とあわせて指定されている。
関ヶ原の戦いの後に、鳥取城主に任ぜられた池田長吉によって、鳥取城は本格的な近世城郭として大改造が行われた。 これに伴って山下ノ丸が大きく拡張整備され、現在みられるような城跡の基礎が出来上がった。 その後、池田光政を経て寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、鳥取池田家の因幡・伯耆両国支配(32万石)の居城となった。 明治維新後、城郭は陸軍省の所轄となり、明治12年にはすべての建物が撤去された。(文化庁・鳥取市教育委員会の案内板より・絵図も)

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