トロとまったり・tripのページ(鳥取城 その5)

表御門跡

【右】左の写真の左側の石垣を。(2枚=2009/8/9撮影)

【左】菱櫓からで、左下が表御門跡。(2009/8/9撮影)
【右】天球丸から表御門跡を見下ろして。(2009/8/9撮影)

天球丸へ

【左】表御門跡から上がって、天球丸へ。写真は振り返って。(2009/8/9撮影)
【真ん中】天球丸へ。(2009/8/9撮影)
【右】天球丸側から振り返って。(2009/8/9撮影)

【左】左上の写真の左側の石垣。(2009/8/9撮影)
【真ん中】左上の写真の右側の石垣。(2009/8/9撮影)
【右】右上の写真にも写る、気になった少し大きめの石。(2009/8/9撮影)

天球丸

【左】天球丸。(2009/8/9撮影)

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。 若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。 天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた三層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。 三層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建される事はなかったようである。 幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。 平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。 現在地の地下から発見された石垣、石段は、これまでその存在が知られていなかった遺構である。 高さは約5mで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪を巡る石垣の一部である。 その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考えられる。 発掘調査では、瓦、唐津焼、伊万里焼などの陶磁器、釘、鎹(かすがい)、簪(かんざし)、煙管などの金属製品が出土した。 また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。(文部省・鳥取市教育委員会の案内板より)

【左】菱櫓跡から。(2009/8/9撮影)
【右】説明板より。(2009/8/9撮影)

【左】天球丸から。(2009/8/9撮影)
【右】二ノ丸から天球丸へ。(2009/8/9撮影)

天球丸・三層櫓跡

古い鳥取城絵図には、天球丸の東南隅に三層(三階の)櫓が描かれ威容を誇っている。 絵図によって細部の違いはあるが、宮内谷川に細長い櫓で、二ノ丸の三階櫓とは趣を異にする。 文政12年に成立した岡島正義の「鳥府志」によれば、享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後再建されなかったという。 発掘調査では、地表下約0.7mに焼け土や炭・灰の混じった土の層があり、この中から三層櫓の礎石が発見された。 礎石から想定される櫓の規模は、梁行四間、桁行十二間で、長さ約24m、幅8mの建物である。 大量の瓦と共に鉄釘、陶磁器が出土している。 また、三層櫓の上層からは、幕末頃の絵図に描かれている切妻建物の基礎が見つかっている。 割石を1.2mの幅で敷き詰めて基礎としている。規模は、梁行四間、桁行十間で、長さ17.1m、幅7.6mである。 弾丸が2点出土した。(文部省・鳥取市教育委員会の案内板より)

【真ん中】三層櫓跡の説明板のそばには石がゴロゴロ。
【右】隅っていうと、この辺り?(2009/8/9撮影)

天球丸の下の方

【左&右】菱櫓跡から天球丸の下の方の曲輪方面を。(2009/8/9撮影)

【左&右】天球丸から見下ろして。(2009/8/9撮影)

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