【江戸城 その1】

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(〜おおまかに〜 1&2&3.東御苑、  4.皇居・皇居外苑・他、  5&6.北の丸公園・他、 7.見附)

東京都 江戸城  とうきょうと  えどじょう
■江戸城=見学無料
■北の丸公園
■皇居東御苑(入園はそれぞれ30分前まで。)
=9時〜16時半(3/1〜4/14、9/1〜10月末)
=9時〜17時(4/1〜8/末日)
=9時〜16時(11/1〜2/末日)
休園日=月・金(祝日の場合、翌日)年末年始、他。
駐車場=近辺の有料駐車場  (2008.3.29現在)
※(表記有り)2004.7.11、2004.10.24、2006.10.14
         2008.5.5、2009.4.5
  (表記無し)2008.3.29 の写真を使用しています。
住所=千代田区
皇居、皇居付近一帯が江戸城跡。

江戸城 (写真をクリック→拡大)


江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に 北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の 3代にわたって、西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ、江戸城の総構が完成した。 明治維新後、江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取り巻く お濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは 北の丸地域が加えられ、広く国民に親しまれている。 (環境省皇居外苑管理事務所の案内板より)
大手門
江戸城の正門。櫓門は第二次世界 大戦で焼失し復元されたもの。 高麗門はほぼ江戸時代の姿。 (菊葉文化協会の案内板より・古写真)
(左)何回来ても、あの木が邪魔。
(左下)高麗門をくぐって…。
(下真ん中)桝形から振り返って。
(右下)迎えるは、どでかい櫓門!
   (5枚=2006.10.14撮影)
旧大手門渡櫓の鯱 三の丸尚蔵館
昭和20年(1945)4月、戦災で焼失 した旧大手門渡櫓の屋根に飾られて いた鯱である。頭部に「明暦三丁酉」 と刻んであることから、明暦の大火 (1657)で焼失した後、再建された際 に製作されたものと推定される。今の 大手門渡櫓は、昭和43年(1968)に 再建されたものである。 (菊葉文化協会の案内板より) (2枚=2004.7.11撮影)
同心番所
番所とは、警備の詰所の事で、百人番所、大番所とこの同心番所の 3つが残っている。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていた。 ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていた。
(菊葉文化協会の案内板より・絵図も)
(左)2006.10.14撮影。何か違うなぁ…と思ったら、 朱塗りの柵になってた。 (真ん中)2004.7.11撮影。
同心番所からの門
(左)大手三之門。同心番所の横。 人がかなり来るので、撮りにくい。 しかも、一応写したはいいけれど、 1人だけギリギリ入ってしまった。 ずっと動かないんだよねぇ。 (2006.10.14撮影)
(右)同心番所から。圧倒される!
(2004.7.11撮影)
百人番所
本丸と二の丸へ通じる要所である 大手三之門の前に設けられた番所 である。鉄砲百人組と呼ばれた、 甲賀組、伊賀組、根来組、二十五 騎組の4組が昼夜交替で詰めて いた。各組には同心が100人ずつ 配属されていた。 (菊葉文化協会の案内板より・右の写真も) (2枚=2006.10.14撮影)
中之門跡
本丸中之門は、江戸城本丸へ登城 する経路の途中にある重要な防御 施設で、現在は石垣のみ残されて いるが、かつては、渡櫓門、多聞櫓 が建ち並び、威厳のある状態であった と思われる。中之門石垣は、江戸城 の中でも最大規模の巨石が使われた 「布積み」という技法で積まれている。 (修復工事中の案内板より)
 (左)'04.7.11(右)'06.10.14撮影。
中之門跡の石垣から刻銘が出土!(展示石は右側石垣の築石)
本丸中之門の左右石垣最上段の築石に、石垣修復を行ったと 思われる江戸時代の大名の名前、年代を刻んだ刻銘が出土した。 中之門石垣は、元禄16年(1703)の地震により被害を受けた。 その石垣修復を伊勢国津藩第4代藩主の藤堂高睦(たかちか) が普請を申し渡されたが、高睦も被災したため 役を免ぜられ、替わって松平右衛門督吉明が工事を行った。 松平右衛門督吉明は鳥取藩(32万石)の第3代藩主であった 池田吉泰のことで、1700年〜39年まで鳥取藩の 藩主であった。(修復工事中の案内板より) (5枚=2006.10.14撮影)
大番所
「番所」とは、警備の詰所の事で、 百人番所、同心番所とこの大番所の 3つが残っている。中之門の側に設け られ、他の番所よりも位の高い与力・ 同心によって警備されていた。 前の坂を登った所が本丸の入口で、 中雀門があった。 (菊葉文化協会の案内板より・古写真も) (2枚=2004.7.11撮影)
中雀門跡&礎石
石がボロボロ…!古さを感じる!
足元には、礎石が残っていた♪
そういえば、逆側からって写して
いないなぁ。人がいたのかなぁ?

(2枚=2004.7.11撮影)
富士見櫓
「櫓」とは、倉庫や防御の役割を持った建物で、 かつて江戸城には19の櫓があった。 今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、 この富士見櫓の3つが残っている。 その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓。明暦の大火(1657)で焼失した 天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれている。 関東大震災により倒壊したが、復元された。 (菊葉文化協会の案内板より) (2枚=2006.10.14撮影) ここは柵があって入れない…。(右)案内板の写真いいなぁ。
富士見多聞
「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の 上に設けられた長屋造りの倉庫の ことで、多聞長屋とも呼ばれた。 鉄砲や弓矢が納められ、戦時には 格子窓を開けて狙い撃つ事ができた。 本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて 万一に備えられていた。 (菊葉文化協会の案内板より・右の写真も)
近いっ(笑)  (2枚=2004.7.11撮影)
本丸&午砲台跡 松の大廊下跡
赤穂浪士討ち入りに繋がった事で 知られる、元禄14年(1701)の赤穂 藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり) の吉良上野介義央への刃傷事件の あった所。廊下に沿った襖戸に松と 千鳥が描かれていたのが、名前の 由来と言われる。江戸城中で2番目 に長い廊下で、畳敷きの立派なもの だった。(菊葉文化協会の案内板より)
(2枚=2004.7.11撮影)

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